2018年12月30日(日)

「ともに生きる喜び」 聖書箇所:詩篇13313

1.共に住む

 「見よ」。それは、感動、喜び、幸せがあり価値あることだから。「なんという」ということばが「しあわせ」と「楽しさ」の前にある。それほどにまで感嘆するものだ。

 お互いに愛し合い、赦し合い、認め合うことの素晴らしさ、お互いが奏でるハーモニーを体験し、成長していく。キリストの体として礼拝し、時間を過ごす時、神の愛の業が成される。

2.とうとい油

 特別に調合された香油(出エジプト30:22-30)。その香油は大祭司の髭、12部族を表す胸当て、神の栄光と美を表す装束の上を滴り流れ、非常にかぐわしい香りを放つ。香りは、記憶に直結する。ダビデは、この香りに聖なる神の臨在を感じ取ったことだろう。

 油は聖霊の臨在。共に住む所に油注がれ聖霊が働く。恵みの証、祈り、奉仕、トラクトの一枚一枚、目に見えない所まで。そこにキリストの栄光、美、香りが放たれる(コリント2:14-17)。

3.ヘルモンの露

 ヘルモン山への露が、はるか遠く低いシオンの山々に降る光景。これは不思議な祝福である。

ⅰ.朝早くに舞い降りる露 露は朝のもの。毎朝、神の祝福を求めよう。神と交わり、神のことばを糧にして毎日を過ごそうではないか。

ⅱ.露はすべてのものに等しく注がれる 露は、地面、草木、車、屋根、ごみ箱、洗濯物、蜘蛛の巣にまで降り注ぐ。神の恵みの露は、偏ることなくすべての人に等しく降り注ぐ。

ⅲ.寒い朝に降る露 露は寒い朝に降る。人生で暗く寂しい孤独の中に、神の愛を含む露が潤す。むしろ、暗く冷たく感じる中にこそ露の素晴らしさが分かる。

4.とこしえのいのちの祝福

 神の恵み、祝福の油は、人生に、各家庭、教会、世界中に注がれる。教会に家族が加えられ、神を礼拝し、交わり、ともに食事をし、祈り合い、励まし合う光景を思い浮かべよう。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」

(山本牧師)

2018年12月23日(日)

「イエス・キリストの誕生と私たち」 聖書箇所:マタイの福音書11825

1.ユダヤ人と異邦人の王であり救い主イエス・キリスト

 マタイの系図から、イエス・キリストは「王」の子孫、「ユダヤ人」の子孫として生まれた。系図に異邦人女性も含まれている。イエスの誕生には、救いがユダヤ人のみでなく異邦人にも及ぶことが暗示されている。現代の「私たち」と「イエスの誕生と救い」は切り離せず、皆、イエスの救いに招かれている。

2.ヨセフとマリアの姿、信仰

 マリヤが身重になり、ヨセフは非常に悩んだ。当時の婚約は、法律的に結婚したことと同じである。その中でも「夫のヨセフは正しい人」であり誠実であった。

 マリヤについて。主の使いは、マリヤに直接現れ、ヨセフには夢であった。直接語られることと夢では優劣をつけたくなるが、マリアは自分の体験に関して謙遜であった。自分の信仰体験を、自分の信仰のはかりにしなかった。

 ヨセフについて。ヨセフは生涯をかけてマリヤを守ろうとした。ヨセフは自分がダビデの子孫であることと聖書の預言で語られたインマヌエルなる方を理解し受け取ったのだ。

 「恐れないで」 この「恐れ」は、「不安」や「疑い」をもたないというニュアンスが大きいだろう。神は私たちの中に良き働きを始められた方であり、それを完成させてくださるお方である(ピリピ1:6)。私たちの人生に良い働きが成されていくことを認めることは大切である。

3.インマヌエル(神は私たちとともにおられる)

 預言されていたインマヌエル「神は私たちとともにおられる」というお方。それは、ユダヤ人だけでなく時代を超えて異邦人の私たちにも約束された名前である。マタイの福音書の最後、イエス・キリストが天に上る時に言われたことばもまた、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)であった。

 イエス・キリストは、今日もあなたとともにおられるのである。(山本牧師)

2018年12月16日(日)

「あなたの求めるもの」 聖書箇所:アモス書546

 アモス書は、アモスによって神のことばが北イスラエルに対して告げられた箇所である。

1.ベテルとギルガル

 ベテルやギルガルは、北イスラエルの聖所のあった所。南ユダのベエル・シェバにも聖所があり北イスラエルから巡礼者があったと言われている。そこでは、自分勝手な礼拝や偶像礼拝がなされていた。朝ごとのささげもの、三日ごとの十分の一のささげ物、種を入れたパンを焼いた感謝のささげものであった。忙しく熱心なものであったが、その本意は「主のため」の礼拝ではなく「自己中心」の礼拝であった。

2.神とともに歩むということ

 「神の選び」とは、神が人々に責任を取って下さると同時に、私たち人間側も神に対して責任を負う者になったことを意味する。神と人との関係は、夫婦関係、互いに「知り合う」関係であり、神のご計画を共有する関係だ。「ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか」(アモス3:3)。アブラハムがイサクを捧げる時に従った姿は、神のご意思に協調した表れであった。

 聖書の中で最初に登場する「愛する」という動詞には、「窓」とか「見る」という意味合いが含まれる。父と子、神と人が同じ窓から物事を見るというニュアンスである。「愛」の概念を、大切な存在と認めることや、かけがえのない価値をもったオンリー・ワン的な存在として受け入れることだけではない。今日、このような「愛」の理解は世の中にも溢れている。神の愛とは、どんな犠牲を払ってでも神と同じ方向を見る、同じビジョンを共有することである。

3.主を求めて生きよ

 「求めて」には、「よく考えて神を求めなさい」という理性的な求め方を意味している。神を熱心に求め、神に尋ね求め、神の隠れた秘密を探し求めようとする姿である。

 「生きよ」というのは、ただ生物的に生きるのではない。いつの時にも「歓喜でいっぱいです」と言えるような人生を生きよと言われたのである。

 主は、今も、私たちに向かって「主を求めて生きよ」と言われる。あなたは生きているか。(山本牧師)

2018年12月9日(日)

「神の国と聖徒たち」 聖書箇所:ヨハネの黙示録7917

1.救われたこと

 ヨハネは、神が世界を四人の御使いによって保護し、時が来るまで悪の力を制しておられる光景を見た。さらにもう一人の御使いが、神のしもたちの額に印を押し、封印、聖別し、保護した。「封印」はヘブル語で「スフラギス」と言い、その印を押す権威を示す。

 私たちも、イエス・キリストにより証印を押された(エペソ1:13,14)。それは聖霊という証印で、神の絶対的な保護の下にあり、御国の後継者、所属を示す。

 大群衆が白い衣を着て、しゅろの枝を持ち、御座と小羊の前に立っていた。白い衣は、信仰により義とされ救われていること、しゅろの枝は死に勝利したことの象徴だ。父なる神とイエス・キリストの前で救いの喜びを証言している姿である。

2.御使いたちの礼拝(7:11-12

 御使いたちが、御座の前で礼拝した。ここにいる24人の長老たちは携挙された教会であり、白い衣を着た大群衆はそれ以外の聖徒で、大患難から抜け出てきた者たちであった。

3.7つの祝福(7:15-17

ⅰ.距離の祝福 神の愛や救いから遠く離れていた私たちは、「神の御座の前」にいる。

ⅱ.奉仕の祝福 「聖所で昼も夜も、神に仕えている」。これは苦役ではない。神に仕えることが喜びであり、平安があること。

ⅲ.交わりの祝福 「幕屋を張る」とは「彼らのところに宿る」こと。神は交わりが絶えずある。

ⅳ.必要の満たしの祝福 大患難時代の飢えと渇き。今の時代も苦しみ欠乏がある。しかし、すべての必要が満たされる。

ⅴ.安全の祝福 神の臨在が彼らをおおうのである。イザヤ49:10

ⅵ.導きの祝福 神が必ず私たちを導かれるという保証がある。いのちの泉がある。

ⅶ.喜びの祝福 苦しみを通った時の涙は、神によってぬぐい取られる。永遠の慰め。

 神の素晴らしい臨在に満ちた御国に入る約束がある。神の前に出て、この約束をいただこう。また、多くの人がこの素晴らしい約束に入ることができるように祈ろう。(山本牧師)

2018年12月2日(日)

「目を上げて天を見る」 聖書箇所:ダニエル書42837

ネブカデネザル王の夢の解き明かしがダニエルによってなされ、一年後に解き明かし通りになる話である。それまでのネブカデネザル王は、霊とまことを持って礼拝していなかった。ことあるごとに神を讃えたが、それは幾つかある自分の偶像の神々に、もう一つ神を付け加えようとしたものに過ぎなかった。このような神信仰は、もろくて、はかない。

1.目を下げて、自分を見る者

 ネブカデネザル王の心の中心には自分が居座っていた。30節の短い一文の中に「私」ということばが三つも書かれている。ここに高慢のしるしがある。

 私たちは、一日を振り返り、人生を振り返り、「神」が主語になる思いを持ちたいものだ。「目を下げて、自分を見る者」ではなく「目を上げて、天、すなわち神を見る者」であろう。箴言12:15「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。」

2.試練は神に向かう時

 神は試練を通して、私たちが目を上げ、天を見るように導かれる。ネブカデネザルは、この経験を通し、自分の上にさらに偉大な天の王がおられることを知った。高慢な者は退けられ、神の前に謙遜に歩むことの大切さを知ったのだ。

 人生には「試練」が付き物である。「試練」は決して否定すべきものではなく、「試練」に意味があることを知る必要がある。

「試練」は人間を成長させる

人間は、試練によって考えさせられ、いろんな新しい洞察が与えられ、人間として成長する。

「試練」は人間を神に向かわせる

人間は、試練を通して自分の弱さ、限界を知らされる。それは人間以上の存在に心を向けるチャンスである。

 人間が試練に遭うことは、信仰を得て成長する最も良き時ではないだろうか。「目を上げて天を見る」。キリストの御生誕を喜び、天を見上げ祝福をいただこうではないか。(山本牧師)

2018年11月25日(日)

「いのちの水の川」 聖書箇所:エゼキエル書47112

 神殿から出た水は大きな流れとなり、その流域と死海をよみがえらせる。いのちの流れが諸国の民を祝福し、世界中にあふれ流れる。これはキリストの愛と恵み溢れる感化力を描いたものだ。どんな苦しみや絶望の中でも、神は必ず救い出し、いのち溢れる神が共におられる。

1.神殿からの水の川

 神殿は神を礼拝し神に出会う場所。罪を悔い改めるためにいけにえがささげられ、贖いがなされる。それは、キリストの十字架の贖いによって罪赦され、感謝し、礼拝する場所だ。神との正しい関係が築かれ神と共に生きる。その川の祝福はとどまることを知らない。

2.実りと癒し

 荒野に水が流れ、死海に水が流れ込み「すべてのものが生きる」。川の両岸には多くの木があり、魚や生き物は生きるようになる。果実が成長して実り、葉は枯れない。

 そこには、動きがある。感動がある。喜びがある。神殿から川が流れ、四方に流れて人々を喜ばせる(詩篇46:4)。家族が、親戚が、地域が、福井が、日本が、祝福されること、教会が喜びで満ちあふれることを思い描こう。神の御業が成されることを思い描こう。

 聖霊の命溢れる水の流れによって、色彩豊かな、素晴らしい香りを放ち、豊かな歩みをさせていただけるのだ、そのような生き方、そのような世界があるとの励ましである。

3.私たちを通して

 パウロは「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っている(コリント3:16-17)」と言う。イエスは言われた。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる(ヨハネ7:37-38)」。「心の奥底」とは「腹」「脾臓」、また、子宮の位置を示すことば。いのちが誕生し溢れ出す場所。聖霊の宮である私たちから脈々と生ける水が溢れ流れる。神の恵みの業は拡大し成長していくのだ。

私たちは「土の器」であり、この中に「宝であるイエス・キリスト」がおられる(コリント4:7-15)。

 私たちのうちにあるまことのいのちを改めておぼえよう。いのちの水の川が、素晴らしい香りと色を奏で、私たちはもとより多くの人々にキリストをお届けできますように。(山本牧師)

2018年11月18日(日)

「新しい心と新しい霊を得よ」 聖書箇所:エゼキエル書183032

 この章は、二つの重要なことが語られている。一つは、罪の責任に関して。罪の責任は、それぞれ個人にあるという。もう一つは、一人ひとりに応じ「悔い改めて生きよ」との神の招きである。

1.罪の責任と結果

 罪の責任はその人にある(18:2)。父の咎の責任は子孫に引き継ぐのでない。自分の罪の責任は自分自身で負う(18:4)。その目的は「一人ひとりが主に立ち返って生きること」だ。

 聖書は、私たちの罪は主イエスを十字架につけねばならないほどのものだと語る。罪という死に至る病を患っている自分、救いようのない絶望、危機的状況の自分。ここに罪を離れ、罪を赦していただく理由がある。十字架の理由がある。十字架によって、罪から解き放たれるのだ。

2.方向転換

「振り捨てよ」(30節)、「放り出せ」(31節)。これは、きっぱりと捨て去ること。罪は「神に背を向けていること」である。「罪を離れる」とは、「今まで背を向けていたものに顔を向けること」である。生きる方向が変えられることだ。トルストイは「悔い改めとは、回れ右することである」と言った。

 放り出すことは、決心がいる。手元に置き、躊躇する姿ではない。

 放り出すことは思いっきりが必要である。それは勢いと遠さをも意味する。

 放り出すことは、自分自身の行い(行動)である。他人任せではない。

 そうすると、キリストの十字架が今まで以上に大事になり、神の国が素晴らしくなり、生きることが価値あるものへと変わってくる。

3. 新しい心と新しい霊を得よ。

 放り出したら、その部分を埋めるものが必要だ。それは、神が下さる「新しい心」と「新しい霊」である(エゼキエル11:19)。これは、神からの恵みの約束である。神の熱心な思いは、私たちが滅ぶことでなく、私たちが新しい心、新しい霊、新しいいのちで 生きることだ。今も神は「新しい心、新しい霊を得よ。」と語っておられる。(山本牧師)

2018年11月11日(日)

「たましいの救いを得ているから」 聖書箇所:ペテロの手紙第一139

1.選び(1:1-2

 「選ばれた人々」。選ばれているということは、選んで下さった方がいる、ということ。そして、神に選ばれているということは、神に愛されているということだ。

 神は計画を持って選ばれた。神は、私たちを適当に選んだのではない。優秀であったから選んだのでもない。母の胎内にかたち造られる前から、私たちを選ばれた。

 私たちは、神の愛や恵みを受けるにはふさわしくないと思う。しかし、私たちはこのままで神を呼んで良い。既に「選ばれている」からだ。神は、本気で私たちを受け入れて下さり、本気で選んで下さっている。

2.神の力による守り

 私たちは、神の御力に守られている(1:5)。神は私たちを「大切な存在」と思っておられる。ゆえに、この「喜ぶ」とはものすごい喜びかたであるから大いに喜んで良い。

 さまざまな試練の中で悲しまなければならないとある。私たちの平安は不安定なものだ。しかし、生活の中にある悲しみ、試練、誘惑は、私たちの中のキリストの平安、キリストの愛、キリストにある喜びを奪うことはできない。なぜか。それは私たちの平安ではなくキリストの平安があるからである(ヨハネ14:27)。

3.たましいの救い

 神は、私たちに祝福を与え、必ず最良の場所に導いて下さるお方。神は、私たちが最良の場所に来るのを待っておられる。

 キリストの贖いによって、私たちはすでに恵みをいただき、たましいの救いを得ている。私たちは天とつながっているのだ。悲しみの中でおぼれるのではなく、イエス・キリストによって、たましいの救いを得ている。それがゆえに神に救われた喜びの証をさせていただこうではないか。(山本牧師)

2018年11月4日(日)

「信仰が語る」 聖書箇所:ヘブル人への手紙1116

 信仰者は、ことばを生活の中で現実化した人々である。

1.神のことばに生きる

 みことばが与えられると、ある人は、少し、ある人は何十年とみことばを持ち続ける。ヨシュア記に登場するカレブは(ヨシュア14:6-13)、神のことばを45年間ずっと心に留めていた。

 私たちは結果を急ぎたがるが、神の約束のことばに対する確信、信仰があるならば慌てることはない。神の時至って真実となるのだ。信仰の証である。

2.アベルの信仰

 一番良いものを捧げようとするアベルの心の姿。兄カインからはその様子がうかがえない。神

の関心事は、ささげる人にもあった(創世記4:4-5)。ダビデやパウロも語っている(詩篇51:16-17ローマ12:1)。神は私たちの心に興味、関心を持っている。

 「カインは・・・顔を伏せた」顔を伏せる=顔が落ちた、と表現できる。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる」「受け入れる」=「まっすぐに立っていればよい」と訳せることば。神に真実に心からささげていれば、顔を落とさず、まっすぐに前を向いて立っていればよい、のである。アベルの信仰は私たちに語る。私たちの神への思い、姿勢はどうであろうか。

3.エノクの信仰

 エノクは365年生き、天に引き上げられた。彼の歩みは神に喜ばれていたことが証されていた。彼の人生は人々に神の存在を教え、神に向けさせるものであった。

 三浦綾子さんのことばに「人の一生の終わりに残せるものは、集めたものではなく、愛によっ

て与えたものである」とある。私たちは集めたものを死んだ後、持っていくことはできない。しかし、この世での愛の行いは、人々の中に残っていく。

 神は私たちの信仰を通して、神の愛、救い、ことばの確かさを証される。「神は確かにおら

れる」という証の人生が待っている。あなたの信仰が、神を語るのだ。(山本牧師)

2018年10月28日(日)

「神のご計画 過去・現在・未来」 聖書箇所:エレミヤ書29414

 約2600年前。小国イスラエルはバビロンに攻められ、首の皮一枚で繋がっている状態。悲しみと苦しみの時代に「悲しみの預言者」と言われるエレミヤが書いた手紙である。

 聖書は私たちの人知れずの悲しみ、苦しみに慰めの光を当て、私たちの過去を踏まえた上でメッセージを語る。私たちの過去、現在、未来という人生の営みにあわせて語られるのだ。

1.過去と現在の神のご計画(4-9節)

 エルサレムからバビロンに行った悲しみの出来事は何と神のご計画であった。過去の悲しく苦しい出来事の中にも神の指、神の御手があった。偽預言者に惑わされないようにとエレミヤは伝えた(29:5-7)。神のメッセージは、「そこでしっかり生きるのだ」「祈って生きるのだ」「そこで神を体験して生きるのだ」という。町の祝福があなたがたの祝福になるのだ。私たちの町のために祈り、家庭や会社の祝福のために祈ることは非常に大切である。神が備えられた時、神によって与えられた場所で生きなさいということである。

2.未来のご計画(11-14節)

 70日とは完全数。神の定めた完全な時、「神の時」があるというと。私たちに対する神の姿勢は、私たちを顧みられ、幸いな約束を果たし、必ず目的のところまで導くことである。神が与えて下さる計画は、平安であり、将来と希望を与える。神の御手の中に、すでに約束はある。決まっているのだ。私たちが神を呼び求めるならば、神は私たちの声を聞かれ、私たちに見つけられる。神は、私たちに見つけられるのを待っておられる。

 私たちの痛みを知る神は、過去の出来事に苦しむ私たちを救い、今現在の私たちを救い、将来を備えて下さっている。

3.前を向いて

 イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じであり、変わることのない方。私たちの過去も、現在も、将来も贖って下さった。今日、打ちひしがれても、将来と希望を与えて下さる。私たちがイエス・キリストを求める時に、ご自身を明らかにし、私たちに神のご計画を信じさせて下さるお方なのである。(山本牧師)

 

2018年10月21日(日)

「五つのパンと二匹の魚の精神」万軍の主の熱心によって 聖書箇所:ルカの福音書910-17

豊村善典師(JEC上郡福音教会主任牧師)

1.上郡での最初数年間の課題

 母教会で6年間牧会。開拓途上教会の上郡に導かれた。万軍の主の熱心が働いた。当初、礼拝出席集数は10名足らず。・キリスト教は欧米の宗教とみられた。・仏教、神道の因習によって人間関係の絆が妨げとなる。・教会と地域の人々の隔たり。・教会学校にはたくさんの子供ちが来た。・霊的な戦い。4年目頃、救われた夫人の洗礼時、家族の猛烈な反対。「日本には日本の宗教。お前が来たせいで家族親族は大変困っている。町から出て行け」と言われた。

2.上郡での戦略

・宣教的であること:地域伝道は世界宣教の一環。近隣の町(佐用)にブランチ。アメリカシアトルで教会出身の宣教師が働く。鳥取県智頭町で開拓中。

・霊的戦い克服のための必要なこと。人々への励まし。祈り。師個人だけでなく願いととりなしの祈り。早天祈祷会開始。現在週3回。婦人中心の自発的モーニングプレイヤー。

3.五つのパンと二匹の魚の精神

上郡ヒット作品。

①夏季学校(継続中。家内の妊娠、教師不足でやむを得ず教会堂で)。

ファミリーランチョン(地域公民館で)。最初100名、6回目には160名以上。会場収容できずストップ。動機は、家族、特に夫を教会に導くため婦人でできることはおいしい料理を捧げる事から。皆が心を一つにし、今の自分にできることを神にささげるなら、どんなに小さく貧しく見える者でも神様が祝福して下さるという信仰が教会員に浸透していく。

 以降、手作りの精神がヒントとなる。サマーフェステイバル、ノア・エ・アンの集いと礼拝、(年配向け)サフランの集い、歴史シリーズ。伝道集会、英会話、コンサート、韓国カフェ、手芸の集い、ミニバザーなど適宜。障害者のためのNPO法人と交流。

◎寂しい所で5000人以上の空腹を子供たちの貧しい弁当であった五つのパンをイエス様が受け取り、祝福して満たしてくださった。「自分の手にある、また教会にある五つのパンと二匹の魚を神にささげ、課題に取り組んでいこう」が教会員と共有できているモットーである。(文責:山本牧師)

2018年10月14日(日)

「満ち足りる心」 聖書箇所:テモテへの手紙第一6611

 「敬虔」は、別訳では「信心」。敬虔な姿の中に、満ち足りた信心、姿がある。これはとても大事なこと。外見は敬虔そうでも、心の中は争いや苦々しさ、不安がある。その時の心の持ちようで、非難したり同意したりする。私たちの思いは自らが選んだ結果とも言える。

1.神の主権、神の存在を認める

 主人に仕えることの有益さ(6:1-2)。聖書には、社会の秩序や権威は神によるもの(ローマ13章)とある。立てられた人々の背後にある神の御手を知ることが大切。神の主権を認める時、不満や不安は神への信頼、平安へと変わり心は満ち足りる。そのような私たちの存在が周囲に祝福をもたらす。また、互いに仕え合う時、キリストの香りが放たれるのだ。

2.真理に堅く立つ

 パウロは、偽教師に注意するようにと言っている。偽教師の特徴は、

・「高慢」:「煙で取り囲まれる」という意味。煙の中で自分も周囲も見えない。

・「何一つ悟らず」:高慢さが邪魔をして、神様のことばが理解できない。

・「疑い、ことばの争い」自分が正しいと思うゆえ、互いに理解し合えない。

・「真理を見失い・・・」間違った教えは混乱、分裂を引き起こす。

 しかし神のことばは、私たちに喜びと平安を与え、私たちを自由にする。

3.感謝のこころ

 満ち足りる心とは、感謝を忘れない心だと言えるだろう(7-8節)。持たない物に目を留め不平をいう心ではなく、今、持っている物、与えられている物に心を留め感謝する。

4.大切なものを見分ける

 聖書はお金が悪いとか汚いと言っているのではない。貧しさを勧めたり、貧しさが美しいと言っているのでもない。金銭欲に支配されることが危険だと警告している。

 お金を愛するとお金がすべてになり、お金に仕えるようになる。しかし神を愛すると、神がべてとなり神に仕えるようになる。私たちは「金」ではなく「神」を愛する者となろう。神の人として、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めよう。

 今日、私たちは満ち足りている。全てを惜しまずに与えることのできるお方、永遠のいのちをも与えて下さったキリストが共におられる。「信じる」とは、神の世界に、キリストに「飛び込む」ということではないか。大きな利益を受ける道が私たちの前にあるのだ。(山本牧師)

2018年10月7日(日)

「下に根を張り、上に実を結ぶ」 聖書箇所:イザヤ書37章30~32節
 アッシリヤの王セナケリブがラブ・シャケを派遣し、攻撃を告げ、ヒゼキヤ王やユダの人々の信仰を揺さぶろうとした。「脅し」による「不信仰への誘い」や「見せかけの保証」があった。しかし民は黙って一言も答えなかった。「沈黙は金、雄弁は銀」ということばがあるが、まさにそういうことである。大切なことは、神の約束、神のことばに立ち続けるということだ。
1.神のしるし
「しるし」と聞くと良いイメージのように思える。しかし、一年目は落ち穂から生えたものを食べ、二年目もそれから生えたものを食べる。そして、ようやく三年目は種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作りその実を食べる。何もない二年間と後の収穫である。
 注目すべきは、何もなく、進歩も成長も見えない世界があるということ。また、そのことも「神のしるし」であるということ。大収穫の前の「しるし」である。
 私たちは、今、試練の中にあって何もないところにいるかもしれない。しかし、そこには神の御手、神のしるしがあると認めていくことが大切である。
2.下に根を張り、上に実を結ぶ
 31節は慰めであり、励ましのことばだ。目を見張るようなことが無い時は、下に根を張っている。しっかりと家庭の中で、職場の中で、地域の中で、教会の中で根を張っていく。時至って、木は成長し実を結んでいく。「実を結ぶだろう」というような曖昧な言い回しではない。「実を結ぶ」のだ。私たちは、キリストに繋がって実を結ぶものとみなされている。
3.神の熱心さを知る
 エルサレムからも、シオンの山からも、残りの者、逃れた者が出てくる。万軍の主の熱心によって実が結ばれることを忘れてはならない。神は必ず実を結ばせて下さるお方だ。
 難しいことや辛いことは多くある。しかし涙を流すときにも、神に近づき神に祈り、神を信じる時、万軍の主の熱心が人生を導く。「下に根を張り、実を結ぶ」人生である。(山本牧師)

2018年9月30日(日)

「新しい人を着たのです」 聖書箇所:コロサイ人への手紙3512

 「罪」とは外面的に悪いことをすることと理解されがちであるが、聖書がいう罪は、神との関係がずれている、絶たれている、と言うことができる。古い人は、神と正しくない関係のことである。

1.古い人との決別

 キリストを信じた人の内側には、新しい葛藤が始まる。それは古い性質と新しい性質との間に生ずる葛藤である。「殺してしまいなさい」ということばは「死んだものと思いなさい」という意味がある。

 「イエス・キリストを信じるならば、古い人はキリストとともに合わさって死んだのだ。だから古い人は死んだものとして歩みなさい、古い人はそのように扱いなさい」と言う。それは古い人との決別だ。(ローマ6:8-11

2.新しい人と共に

 パウロは、クリスチャンとは古い服を脱ぎ捨て、新しい服を着た人であると言う。新しい人は、造り主のかたちに似せられますます新しくされ、真の知識に至る。そこには、ユダヤ人と異邦人、割礼の有無、奴隷と自由人といった区別はない。キリストを宿している者は、キリストにあって一つとなっている。そして、キリストの品性を身に着けるように勧めている。

3.わたしはどちらなのか

 既に古い人がキリストとともに葬られたにもかかわらず、私たちの思いや判断は古い人を着たがる。古い人を脱ぎ、なぜか再び脱ぎ捨てた古い人を着ている。また、新しい人を着たと確信したはずの自分が、その後「古い人のように歩むかもしれない」という恐れを抱くこともあるだろう。

 キリストの愛、十字架の愛の御業は、そういった私たちの弱さをも覆いつくす完全な愛であり、完全な赦しである。私たちは造り主のかたちに似せられて、ますます新しくされるのだ。

 福音に敵対するのは肉の思いである。信仰生活の鍵は、肉の思いに従うのではなく、聖書のことば、神のことばに立って従うかどうかである。神は、私たちに新しい人を着させてくださった!(山本牧師)

2018年9月23日(日)

「確実な生涯」 聖書箇所:詩篇3723-28

 自然界を見る時、新緑の木々もきれいだが、錦織りなす紅葉はさらに美しい。同じ様に神は信仰者の老いを美しく飾って下さる方である。

信仰の父と呼ばれたアブラハムを思い起こすとよい(創世記24:1)。彼のように静かな満ち足りた感謝と平安に包まれた老いは、私達が理想とする在り方ではないだろうか。だが、そこに至る道は試練や困難の中で「自分の道を主にゆだねる」ことと、「主を待ち望む」こととを体得することにあるように思う。

 23節の人とは、一般人ではなく神と共に歩む人たちのことであり、「勇者」とも訳せる言葉だ。神を無視し、誘惑に満ちたこの世にあって、信仰者は確実な生涯が約束されている。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と仰せられたイエスに信頼するなら不動の人生とされるからだ。自分の高ぶりや愚かさや怠慢から転んでも倒れ伏すことはない。主が信仰者の腕を支えておられる事実を覚えよう24節)。

 また信仰者の歩みには主の豊かな養いがあり、保証された生涯が約束されている25節)。信仰者の歩みにも苦難、試練困難、逆境もあるが、それらに勝利する生涯が約束されている。逆境を通して聖徒達の信仰は磨かれ鍛えられるからだ。

 私達は信仰の修練を怠ることなく、主に訓練され育成された信仰の勇者を目指そう。(ローマ535(川瀬清文師)

2018年9月16日(日)

「キリストを見いだす者」 聖書箇所:箴言81236

 箴言8章は、箴言の中で最高峰と言われる箇所。知恵は私たちに分別や知識、思慮を与える。また知恵は、主を恐れることを教える。箴言の中心メッセージは「主を恐れることは知識の初めである。」である。

 キリストは天地が創造される前から存在していた(8:22)。天地創造の業に参加しておられ、創造を楽しみ、創造物を喜ばれた。今日も私たちのことを喜ばれ感動して下っている。

1.あなたの近くにある御声

 私たちの歩みで大切なことは、「誰の声を聞いて、誰に従っていくのか」である。私たちの人生を絵にたとえると、絵が何に描かれているか、つまり「素材が何であるか」を私たちは気にしやすいのではないか。しかし、その絵の価値は「誰がそれに絵を描くか」である。人生の意味や価値は、誰に描いていただくかによって決まるのだ。

 私たちは誰の声を聞いて生きているだろうか。私たちが左右されるべきは、神の御声、神のことば。「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。」(コロサイ2:3

2.キリストを見いだす

 神が近くにいて下さっても、私たちが神を無視していては何にもならない。神は私たちに、戸口の柱のわきに、傍らに立つことを求めておられる。そうすると、私たちはイエス・キリストを見つけるのだ。「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」(箴言8:17)、参照:エレミヤ29:11-14

 キリストを見いだす者は、いのちを見いだし、恵みをいただく。キリストを見失う者は、自分自身を損ない、死を愛する者だという。私たちは、生活の中でキリストを見いだすことができる。神は私たちにご自身を現し、私たちが気付くことを待っておられる。

 主の傍らという指定席が、私たちそれぞれに与えられている。キリストの御霊が、私たちの盲目さを洗い、キリストのいのち、豊かさを教えて下さるように。(山本牧師

2018年9月9日(日)

 「主をほめたたえる」 聖書箇所:詩篇10315

 最も麗しい詩篇と言われる。お願い事が書かれておらず、全て、神への賛美と感謝である。クリスチャンの特権は、神を賛美し、神に祈ることであろう。賛美は、その人の人格を変え、神のご臨在をおぼえさせ、賛美によって神の豊かさの中に身を置く。聖霊は私たちを励まし、癒し、喜びの人生へと転換して下さる。

1.わがたましいよ

 自分への命令であり励ましである。なぜ、自分のたましいに向かい呼びかける必要があるのだろう。それは、私たちが主の恵みを簡単に忘れ、たましいが迷い、すべきことだと分かりつつしないからである。恨みやつら、人からされたこと事は忘れずに覚えているが、神からの祝福はすぐに忘れてしまう。また、私たちのたましいは世の中から影響を受けやすい。肉に属することから刺激を受け、意志が影響をうける。主をほめたたえることは決心が必要である。それは、この世から受ける力のほうが大きいからである。

2.主の良くしてくださったこと

 神の祝福は、罪の贖い、病の癒し、生活すべての領域に及ぶ。イエス・キリストの福音は、罪の赦しと永遠のいのちを与え、病や、生活全般にまでその祝福が及ぶものである。神は私たちに良いものをお与えになる方である。鷲の特徴と同じく(103:5)、神をほめたたえる時、私たちの生活や信仰の歩みも若々しく新しくなる。

3.主をおそれる者

 私たちの姿勢が書かれている言葉は「主を恐れる」である(詩篇103:111317)。主は畏敬の念を持った者に対して神の恵みを豊かに注いで下さる。私たちは何気にクリスチャンとして生きているかもしれない。しかし神の愛は、私たちを確実にとらえ、私たちを生かし続けて下さっている。このお方を心からほめたたえよう。               (山本牧師)

2018年9月2日(日)

「いつも主にあって喜びなさい」 聖書箇所:ピリピ人への手紙447

 この手紙は「獄中書簡」、また「喜びの手紙」とも言われる。パウロが獄中で殉教を目前に緊迫状態の時、かつて宣教してヨーロッパに最初にできたピリピ教会に書いた手紙と言われる。

1.喜びなさい

 この手紙には16回「喜び」ということばがある。喜びの回復のメッセージだ。喜ぶような材料があっても無くても喜びなさい、ということ。私たちは願いが全て叶ったら、山頂まで行ったら、喜ぶのであろうか。人生の三合目、五合目、七合目でも、春夏秋冬、それぞれの季節の中でも喜ぶのである。

 考えるべきことは、喜びの根拠を自分自身やこの世にだけ置き、神に置くことを忘れてはいないか、ということ。喜びをもたらすのは「福音」である。この「喜び」に伴うことば「主にあって」は、「キリストの中に」ということで、キリストの中にすっぽりと包まれている様。キリストを知り、キリストに知られ、必ず最善がなされると信じるときに「喜び」が伴う。「喜ぶ」(ギリシャ語:カイロー)は、「恵み」(カリス)から派生したことば。神の恵みを知る時に「喜び溢れる世界がある」ということだ。

2.寛容な心

 寛容さはキリストの香りである。教会は雰囲気が大切である。心が広い雰囲気、優しい雰囲気、寛容な雰囲気、それらはキリストの香りである。

「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」(コリント2:15

 主が私たちの傍におられ、私たちを通してキリストの香りを放って下さるのだ

3.祈り

 私たちには、神への直通電話「祈り」というホットラインがある。ホットラインとは「いつも通じている通信線」である。気分が向いた時だけ、必要な時だけではない。「いつも」通じているのだ。八方行き詰っても、天はいつも開けている。全ては祈りから始まるのだ。

4.神の平安

 神に知っていただいているという確信は、私たちを平安へと導く。神は、私たちの考えにまさる神の平安、人知を超えた平安によって守ってくださる。「キリスト・イエスにあって守ってくれます。」の「守る」とは「監視する」という意味がある。神様の平安が嵐の中でも私たちを監視して守って下さっているのだ。                      (山本牧師)

2018年8月26日(日)

 「祈りの自由性」 聖書箇所:詩篇18131

 人は何かにつけて「祈る」という行為をとる。創世記4章の祈りには、「主の名によって」とある。けれども、私たちは主の名は付けなくても、危険が迫ったりすると「オー、神様」と祈ることがある。「主は、一人ひとりの心を形造り、わざの全ての事を読み取る」方だ。私たち、救われた者がどのように祈るべきか、先人達の祈りを聞いてみよう。

 聖書の中の短い記録であるヤベツの祈り。要点は、「大いに祝福してください。・・・災いから遠ざけて下さい。」である。身勝手なことばだと思うであろう。しかしヤベツは何故このようなことばを大胆に口にして呼ばわったのであろう。

 ヤベツは先人達(聖書に登場する人)の信仰を知っていた。今日、私たちが聖書を勉強しているのと同じである。「祝福」、どこかで聞いた言葉である。それは「アブハム」のこと。神のことばを伝え聞いていた当時の通信である。異邦人であったアブラムにイスラエルの神様が与えられたことばは、苦しい日々を送るヤベツにとって、「輝きともいえることばを自分にも」、と神に呼ばわったのである。おそらく一回でなく、早天祈祷だったであろう。何年も経っていたであろう。聖書は結果を述べてはいないが、ヤベツはどのような勝利を得たのであろうか。神に対する絶対的な信頼を確信したのである。神のことばに納得したのである。神学者の渡辺善太氏は「天声人語」のコラム欄で「霊性深く届いて、自覚を生じる」と言った。神のことばが私たちの祈りの中で与えられることが一人ひとりの信仰、神に対するコントロールが与えられる、それが答えである。

 祈りは大胆である。ダビデの祈りには「大声をあげよ」「主に向かって叫べ」「力の限り呼ばわれ」「主の御前で心を注ぎだせ」「わたしのうちにあるすべてのものよ、主を求めよ」とある。ダビデは喜びの時、踊り回った。何と自由であろう。体全体で心から主に寄り頼んだ。主は私たちとともにいて下さる。ハレルヤ。

 祈りは神様との通信である。また、信仰の呼吸とも言われる。       (東長老)

2018年8月19日(日)

 「確かにある神の御手」 聖書箇所:エステル記7110

 エステル記は、異邦人のペルシア王国の支配の下に、神の不思議な守りを体験したユダヤ人の話である。エステル記には一切「神」という言葉が出てこない。神がいないのではなく、神が関与していないのでもなく、「隠れたところで歴史を支配しておられる」のである。一つ一つの出来事の背後に、働いておられる神の御手が隠されている。

 エステル記67章は、ハマンのユダヤ人滅亡作戦の陰謀が王に知られてしまい、事態は逆転し、陰謀を図ったハマンが自滅してしまうという、痛快な話である。

1.ハマンの姿

 彼は、自分の地位、名声を気にした人物であった。そして、表面は謙遜そうであったとしても、彼の心には人を見下し、自分本位の姿があった。そのような人生を神は喜ばれない。私たちの中に、ハマンのような姿はないであろうか。

2.背後にある神の御手

 聖書は、神の御手が働いていることの証明であることおぼえたい。エステル記においても、エステルが王妃になること、王とハマンを祝宴に招待すること、王が眠れずに年代記を読んだこと、モルデカイに褒美をやっていなかったことに王が気づくこと、ハマンがモルデカイのために柱を立てること、など、絶えず神の御手が背後にあった。ローマ人への手紙11:33-36

3.聖霊とともに

 人は、どんなに知恵をしぼって事を行っても、神に勝つことはできない。「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリント1:25

 私たちには助け主なる聖霊が働かれている。聖霊の助けを得て、信じてともに歩む。その歩みの中にも、全能の神の御手は働いておられる。今日という営みにも、神の御手があることをおぼえ、神に期待して歩もう。(山本牧師)

2018年8月12日(日)

「祈りの人」 聖書箇所:ネヘミヤ記1111

 エルサレムの城壁は崩され、ユダヤの人々は非常な困難の中でそしりを受けていた。そのことをペルシャ王の献酌官であったネヘミヤが聞いた時、彼はすわって泣き、数日間、喪に服し、断食して天の神の前にとりなして祈った。

1.熱い思い、熱い愛の心

 イスラエルの人々への愛、神への愛がネヘミヤの心を揺さぶっていた。献酌官という安泰な地位や豊かな生活を顧みず、城壁と信仰の回復のために働く使命感に満たされた。

 私たちにとって、イスラエルや城壁とは何であろう。愛する家族、仲間、神の国がなおざりにされている現実ではないか。神に真剣に祈る心を与えていただこうではないか。

2.祈りから始まる

 ネヘミヤは、王に助けを求めたのではなく、人を集めたのでもなかった。まず神の御前で泣いた。そして祈った。ネヘミヤは急いでいたからこそ祈りから始めた。これは簡単なようで難しい。私たちは問題が生じると人を訪ねて聞きたくなる。問題が直ちに解決されそうだと思うからである。私たちは自分で行なって結果が出ない時、最後の手段として祈り会に出たり、断食祈祷をしたりしないだろうか。順番が逆である。最初は「人ではなく、神に」である。

3.ネヘミヤの祈り

ⅰ.神の力と偉大さをほめたたえた。:全能の神の主権を認め、契約の神に祈る姿勢。

ⅱ.罪を告白する祈り:人は急いでいるため自分を振り返るのが苦手。問題や苦痛の原因は何かを、神の御前で探すこと、自分の姿を見つめることは大切。

ⅲ.神の約束を顧みた:神の約束は不変であることを告白し祈る姿勢。イエス・キリストによって救われたこと、聖書のみことばを信じていることを日々、告白することは大切。

 ある人は「神の弱点は「私たちを愛している」ということである。」と言った。私たちを愛してやまない神に対し、祈りから始まる歩みをしようではないか。        (山本牧師)

2018年8月5日(日)

「祈りは、天に届いた」 聖書箇所:歴代誌第二301327

 神は、私たちの祈りをいつも聞いておられる。イギリスの偉大な説教家スポルジョンのことば。「祈りはただちに天上の注意をひく。」「あなたの祈りがたとえいかに弱く、おののき震えるものであっても、無視されたり顧みられないということはない。」

1.神との関係の回復

 ヒゼキヤ王が王に就任した直後、直ちに改革、主の宮を整えた。それは南ユダの人々と神との霊的、信仰の回復を意味する。国のどんな政策や改革よりも、主の宮の再建を抜きにしては考えられなかったのだ。神への熱心な、誠実な思いの表れてである。

 私たちは、神の前でどのような姿であろう。私たちという宮が整えられる必要があるだろうか。私たちが荒れ果て、壊れ果て、偶像があるならば嘆く必要があり、自らが整えられなければならない。マタイ6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。・・・」

2.残れる人々のために

 30章では、ヒゼキヤ王は過越のいけにえをささげることを決め、南ユダだけでなく、北イスラエルの残された民も招いた(歴代誌30:6-9)。イスラエルの多くの人は、この招きをあざ笑ったが、一部の人々(アシュル、マナセ、ゼブルン)は、この招きに応じた。

 私たちの周囲にも、残れる人々がいる。イエス・キリストの十字架、福音を語っても、あざける人々がいるであろう。しかし、福音に応答する人々もいることを忘れてはならない。

3.祈りは、天に届いた。

 神との関係を修復したヒゼキヤ王は、民たちと神を祝い、祈り、その民たちの祈りは神の聖なる御住まい、天に届いた。イスラエルの人々のうち、ある者は身をきよめないで、いけにえを捧げた。ヒゼキヤ王は彼らのためにとりなしの祈りをし、この祈りはすべての人々の回復となった。私たちの、あなたの小さなとりなしの祈りが、今日も祝福の川となるのだ。(山本牧師) 

2018年7月29日(日)

 「直ぐな心」 聖書箇所:歴代誌第一291020

 歴代誌は、神の民の間に「礼拝こそイスラエルの中心である」という神殿礼拝を確立するために書かれたもの。

 今回の箇所は、ダビデが神の宮のためにささげものをした場面と、その礼拝、祈りである。ダビデは神殿建設のために、資材を集め、また、自ら喜んで感謝をもってささげたのであった。

1.神中心

 ダビデの信仰の在り方は「自分中心」ではなく「神中心」であった。神のご計画に参加していることの自己満足や優越感によってではなく、自分の欲求のためではない。

 彼の喜びは、神のご計画に喜んで参加できること、神の思いに寄り添って歩むことであった。神中心の思いである。

2.ダビデのささげものに対する思い

 周囲のものに対して、私たちはどのような考えを持っているであろうか。家や車や財産、家族、友人、仕事、立場、すべてのものが神の恵みによって受けていることであり、すべて神のものと言い切れるだろうか。

 ダビデの信仰は「すべてのものは神から与えられた」という信仰である。神の恵みを知り、感謝するダビデの姿に、私たちは自分を照らし合わせようではないか。人生の危機は感謝を失うことである。多くの悩みや問題は、感謝できない時に起こる(テモテ4:4-5)。

3.神への一途な心

 私たちの心のベクトルはどこを向いているだろうか。寄り道をしたり、神とは別の方向を向いていないであろうか。 神殿建設は大事業であったが、神が重要視されるのは、神殿そのものではない。口先だけの礼拝、日曜だけの礼拝、教会だけの礼拝でなく、心にいつも神への礼拝がある。その直ぐな神への礼拝が、私たちの生活にキリストの香りを与える。これこそが、神が喜ばれる神殿建設である。                        (山本牧師)

2018年7月22日(日)

「さげすみと喜び」 聖書箇所:歴代誌第一152529

 歴代誌には、ダビデに与えられた礼拝、賛美、ビジョンが強調されている箇所も多い。契約の箱をエルサレムに運び上るダビデ達。歓声、角笛、ラッパ、シンバル、琴、立琴が響き渡った。ダビデは力の限り踊り、自分の家来のはしための前で裸になるほどであった。ダビデの妻であるミカルは窓から見下ろして、そのようなダビデをさげすんだのであった。

1.ミカルの素直になれない心

 ミカルは先代サウル王の娘で、ダビデがサウル王に命を狙われた時、ダビデを逃がし、偽装のため寝床にテラフィムとヤギの毛で編んだものを置いて着物で覆った。

 テラフィム。これは家庭や個人の守護神として用いられた偶像のこと。ダビデの神、真の神を自分の神とせず、彼女の生活と心の深みには偶像があったことが見受けられる。

 ダビデを逃した後、ミカルは父サウル王によって別の男と結婚した。後に、ミカルはダビデによって取り戻されるが(サムエル3:12-16)、その時には、既にダビデには別の妻がいた。彼女の心は、ダビデからも、また真の神からも離れていった。

2.相反する姿

 ダビデの全身全霊をもって神をほめたたえる姿と、窓越しのミカルの冷たい視線の姿。ここに二面性がある。「神を自分の中心に迎え、素直に受け入れる自分」と、過去の経験や自分中心の思いに縛られた「素直に喜べない自分」である。ダビデは、素直に神を喜んだ。しかしミカルは、偶像がひそかに心の中に潜み、まっすぐな思いで神をほめたたえることができなかった。

3.心からの礼拝者

 私たちの中に「ミカル」のような思いがないだろうか。真心の礼拝を、傍観者の立場で、さばいてはいないだろうか。心からの思いや、心から湧きあがる礼拝に蓋をして自分自身を偽ってはいないか。神が喜ばれる姿は、真心からの礼拝、真心からの神との歩みである

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4:23

                                    山本牧師

2018年7月15日(日)

 「キリストの体なる教会の姿に」 聖書箇所:コリント人への手紙第一121227

 十二章には御霊という言葉が15回以上も出てくる。御霊が教会に対し関係を深く持っておられることが分かる。また、「キリストの体としての教会」について繰り返し語られている。

1.あなたの中のカリスマ

 「ですから、・・・」とある。この「ですから」の前には、御霊の賜物について書かれており、賜物はギリシャ語で「カリスマ」という。この箇所には、知恵のことば、信仰、いやし、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など記されている。

 私たちにも御霊によって賜物が与えられており、その賜物は孤立したものではなく、体を構成して一つに合わされている。私たちにはどのような賜物、カリスマがあるだろうか。

2.一人ひとりの必要性

 聖書は、弱いところや大変なところこそ「大事である」と言う。つまり、弱さを自覚することは、それはそれで構わないこととも言える。教会に来ている私たちが全員必要であり、私たちの代用品となる人、代わりの人は世界にはいないんだと、選んで下さったのだ。

3.ハーモニーなる教会

 神は、私たちそれぞれのことを必要だと言っておられるだけでなく、お互いがお互いを必要としているのだと言われる。コリント12:2427から。

 「調和させてくださった」:調和とは、ギリシャ語で「混ぜ合わせて、ブレンドする」という意味。オーケストラは一つの楽器だけでは成立しない。調和が良いハーモニーを生み出す。

 「いたわり合う」:教会は、互いに「いたわり合う」ところである。聖書の中の「いたわり合う」とは、「思い煩う」という言葉から来ている。自分に思い煩うのではなく、他人に対し思い煩う、他人のことに気をかける、隣人を心配する生涯である。

 私たちは「キリストの体として繋がっている。「繋がって、調和し、繋がって、いたわり合う」のだ。その教会のハーモニーは、キリストのいのちを奏でるのである。   (山本牧師) 

2018年7月8日(日)

 「私たちの心の痛みを」 聖書箇所:列王記第二22820

 ヨシヤ王は「民族最後の希望の王」と言われた存在。大胆な宗教改革を行ったことで有名。

1.神の御心を知るなら、すぐに襟を正そう

 Ⅱ列王記22:2「彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」これがヨシヤ王の人生を歩む姿であった。かつてもダビデ王の失敗も成功も知ることで人生の道しるべを得ていた、と言うことができる。

 律法の書を読んだとき、彼は自分の衣を裂いた。「衣を裂く」とは悔い改めを意味する。神のことばに触れたとき、自分の襟を正したのだ。

2.共に担うこと

 ヨシヤ王は一人で宗教改革を行ったのではない。祭司や書記、家来を選び、主の御心を知るための行動をとった。へりくだって人の意見を聞き、人と協力する姿があった。

 ヨシヤ王は、日常の仕事を忠実に行っているとき、律法の書を発見した。これが神の時を待つ方法である。私たちは日常の従順の中で神の声を聞き、そのことばは私たちを変革へと導くのである。

3. みことばによる心の痛みをご覧になる神

心痛めること:ことばによって心が痛い思いをするのは大切なこと。その時、みことばの戸が開かれる。信仰の始まりであり成長の過程である。

主の前にへりくだること:他人や環境の責任にするのではない。神の前の自分の姿を認めること

衣を裂き神の前で泣くこと:悔い改めの心、神への後悔の念をもって泣くほどの思い。その真剣な姿を、神はご覧になられる。

 神は、大きな愛をもって心揺さぶり、心の琴線に触れることばを語られる。この神のことばに、真心をもって応答する日々となるように。                (山本牧師) 

2018年7月1日(日)

「油のつぼ一つしか」 聖書箇所:列王記第二417

1.正しい場所に行くこと

 一人の預言者のともがらの妻が困窮した中で、預言者エリシャに求めてきた。彼女には三つの問題があった。

ⅰ.夫が死んでしまった、という悲しみ。

ⅱ.負債があり、二人の子どもが貸主の奴隷になってしまうという恐れ。

ⅲ.信仰者であったが絶望感があった。

 彼女は弱さの中にあっても、神のみことばを聞くことができるところにやって来た。彼女は、一番正しい場所に来た。クリスチャンになれば悲しみ、苦しみ、問題はないであろうか。イエス・キリストを信じていても困難、問題はある。問題は避けられないが、問題を乗り越えていく力を神は与えてくださる。

2.解決はあなたの近くにある

 「何もない」「・・・しかない」とは私たちも良く言うのではないだろうか。本当に何もないのだろうか。「油のつぼ一つしか」なかったが、エリシャはその油のつぼ一つを用いた。

外に出ていくこと:外に出るとは、悩んでいる領域、自分の力の領域から出ること。自分の力を放棄した時から、神の力の領域に入るのである。

空の器を借りてくること:空の器とは、神が満たして下さる器を用意するということ。

後ろの戸を閉めること:今までの不信仰の声を、不安の声から分離するということが必要。

 私たちは、イエス様の方を向き、耳を澄ませると、内におられる御霊に気が付く。

3.将来の喜び

 空のつぼは満たされた。二人の子どもたちは空のつぼを喜んで持ってきたであろう。この器が満たされるのと同時に、彼女の信仰の器も満たされていった。この後、彼女たちの将来は約束された。私たちの器は、どのような器であろうか。               (山本牧師) 

2018年6月24日(日)

「繁栄の中の神のことば」 聖書箇所:列王記第一919

 ソロモン王は、知恵と栄華、富とを手に入れ、彼の時代は、繁栄と平和であった。

1.ダビデの信仰に倣う

 主からソロモンへの約束は、「あなたが、あなたの父ダビデが歩んだように、全心と正しさをもって、わたしの前に歩み、・・・」であった。父ダビデは大きな罪を犯し、失敗もしている。しかし、神の前で罪を認め、赦しを求め、神の中に生きることを選び取った。これが「ダビデが歩んだように」という意味である。私たちの姿は、どのような姿であろうか。

2.人の本質を知っておられる神

 ソロモンの人生は、残念なことに失敗してしまう。大きな二つの失敗は、金銀を己のために多く貯蓄し、快楽におぼれてしまったことであり、異教徒の女性を数多く妻として迎え、彼女たちが持ち込んだ偶像礼拝に引きずり込まれていったこと。ソロモンの晩年は、父ダビデの信仰からは程遠い、神から遠ざかった歩みとなった。

 神は、繁栄の条件の約束を与えるとともに忠告もしている。彼は、この神のことばに真摯に向き合う必要があった。人は、目に見える神殿の建築には熱心である。しかし、目に見えない神殿建築のための情熱は失いがちである。

3.平和と義なる方

 ソロモンとは「平和」という意味。イスラエル王国は、平和の真只中であった。平和の中でも困難な歩みの中でも決して忘れてはならないこと、それは「神への従順さ」「神の義」である。平和と義とは共に共存すべきものだ。キリストの国は、義と平和の王国である。ソロモンは、外見上の王国は築き上げたが、次第に心の王国を築くことにおろそかになった。

 イエス・キリストは、十字架の御業によって私たちに平和を与え、私たち自身を神の神殿として下さった(コリント6:19-20コリント3:16)。私たちの内に宿っておられるお方は、日々、私たちを義の道に導き、神の聖さにあずからせようとしておられる。  (山本牧師) 

2018年6月17日(日)

「キリストと一つ」 聖書箇所:ローマ人への手紙6114

 救いとは、私たちが一生懸命、慈善を行い、鍛錬をして勝ち取るというものではない。ただ、自分の罪深さを自覚し、認め、十字架の御業を仰ぎ、キリストを救い主と信じた時、救われるのである。救われた人は、救いを失うことはない。ここでは、クリスチャンになった人が、恵みがさらに増すために罪の中にとどまり続けるべきであろうか、という質問である。

1.キリストと一つ

 「絶対にそんなことはありません。・・・」とは、最も強い否定のことば。私たちはすでに「罪に対して死んだ」。死んだ人は罪の影響を受けない。キリストにつくバプテスマを受けた(ローマ6:3-4)とは、キリストと一つになったことを意味する。これは感覚ではなく、救いの原理であり、聖化の土台だ。クリスチャンとして義と認められていても、罪の誘惑を感じ、残念なことに罪を犯してしまう時がある。しかし、私たちの立場は「罪が私たちを支配する権利はない」ということである。

2.勘定しなさい(ローマ6:11)

 「・・・思いなさい。」は、ギリシャ語で「ロギゾマイ」。算数のことばで、「よく計算して、答えを出しなさい。」「勘定しなさい。」ということ。感情ではなく、知的理解を意味する。私たちは、キリストと一つになったことにより、すでに罪に対しては死んだ者。この世では、罪の性質は私たちのうちに残っているが、罪は、私に対してすでに法的な権利を失っているのだ。

3.御霊によって神に従う道を選択する(ローマ6:12-14

 私たちの立場は、すでにキリストとともにある。私たちは、御霊に導かれて自発的に神に従う道を選択すべきである。「神に従う道を選択する」ことは「御霊との共同作業」である。

 既にキリストによって罪と死の原理から解放されたのだ、という立場に立ち、御霊の助けによって神の道を選択していくのである。聖化の道を進み、キリストの似姿に変えられていくのだ(Ⅱコリント3:18ガラテヤ2:20) 私たちは、既にキリストと一つである。罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリストにあって生きた者なのである。       (山本牧師) 

2018年6月10日(日)

「恵み深き王」 聖書箇所:サムエル記第二9113

1.一方的な恵み

 恵みとは一方的である。メフィボシェテは幼い時に足が不自由になり、サウルの子孫ということで、逃げ隠れるように過ごしてきた。「メフィボシェテ」には「恥ずべき存在」という意味が含まれる。彼の人生は名前の如くであった。その彼が恵みを受けた。恵みとは、受ける価値のない者、受ける働きをしていない者、返すことができない者が、一方的に受ける愛の現れだ。返してもらおうと思って施すものは、それは恵みではない。

 私たちが受けたイエス・キリストによる十字架の恵みも同じである。ただ、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるという理由だけで、恵みが一方的に与えられる。

2.契約の確かさ

 この恵みは、契約が伴った(サム20:14-17)。ダビデとヨナタンで交わされた契約の確かさの故、メフィボシェテは恵みを得、ダビデの愛を受けた。私たちも、イエス・キリストを信じ、十字架によって救われ、新しいいのちを得るという、新しい契約の領域に入ったのだ(コリ11:25)。

3.恵み深き王のことば

 「彼は、どこにいるのか。」メフィボシェテを探すダビデの声。私たちに対する神の愛の御声は、「あなたは、どこにいるのか」と満ち溢れている。

 「恐れることはない。・・・」私たちが地上のいのちを終え、神の前に出る時、この地上で犯した数々の罪を思いだされても、イエス・キリストの血潮によってきよめられているという恵みは確かなものである。

 「いつも食事をする・・・。」メフィボシェテはダビデ王と共に食事をした。名前や状況、人間的な運命ではなく、ダビデと父ヨナタンの契約によって恵みの子孫、王の子孫になった。私たちにも、今日、偉大な王の食卓が用意されている。これはイエス・キリストによる私たちへの恵みを表す。この恵みの業は、聖書の昔から今の時代にも豊かに流れている。  (山本牧師) 

2018年6月3日(日)

「困難を克服するために」 聖書箇所:サムエル記第一174154

 ダビデが、ペリシテ人ゴリヤテと戦い勝利する痛快な箇所である。この箇所で、イスラエルという民と国を動かす本物の巨人は誰なのだろうか。

1.四人の巨人

 四人の巨人ともいえる人物。三人は真の巨人ではなく小人であった。一人、真の巨人がいた。

ⅰ.肉体的巨人ゴリヤテ。神に敵対する代表の人物であった。

ⅱ.政治的巨人サウル。神に見捨てられたが、政治的な王。戦いに対し意気消沈し、恐れた。

ⅲ.家庭の巨人、兄エリアブ。威厳があり素晴らしかった(サム16:6)。ダビデに対しての怒りの本質は、ダビデがゴリヤテを見て真実を言ったこと「・・・生ける神の陣をなぶるとは」。自分より経験が少ない弟を正しいと認めることができない彼は小人であった。

ⅳ.真の巨人ダビデ。信仰的巨人。恐れず石投げでゴリヤテを倒した。これを単に武勇伝と捉えてはならない。毎日の神との親密な交わりで知恵が養われ、石投げを練習し、戦う経験も豊富であった。一日で霊的な巨人になれはしない。詩篇16:8「私はいつも、私の前に主を置いた。・・・」。日々の訓練によって、戦場で神の御心を知り、勝利を確信した(サムエル17:34-37)。

2.神への純粋な信仰

 ダビデの戦いの動機は、神への純粋な思いであった(サムエル17:25)。人間的な思いから来る行動ではなく、「生ける神の陣をなぶる」という神への侮辱に対するものであった。ダビデの決断と行動は、聖なる憤りであり、神への純粋な信仰の表れであった。

3.神が与えられる武器

 ダビデは石投げで勝利を得た。神が私たちに普段から与えられている、使い慣れた、訓練された武器や賜物によって勝利を得ることを意味する。人の信仰、借り物信仰では役に立たない。ダビデは背伸びをすることもなく、精一杯生きる中で、個人的に神を体験していった。巨人ゴリヤテのような困難に直面したとき、勝利の戦いへと導かれたのだ。       (山本牧師) 

2018年5月27日(日)

「福音宣教の舞台裏」 聖書箇所:使徒の働き18111

 「使徒の働き」の後半は、パウロの働きが目立つが、その舞台裏を見逃すことはできない。

1.神の励まし「恐れるな」

 「恐れるな。」とは、聖書の中に366回出てくる。私たちは過去を恐れ、今を恐れ、未来を恐れる。昨日が良くても、今日、心が折れそうな時もある。神は語られる。「恐れるな」(イザヤ43:1-3)。パウロにとっても、良いことと悪いことが、波のように押し寄せる歩みがあった。そのような時、恐れなくても良い理由は、神が共にいるということ。辛く先が見えないような状況で、その嵐が永遠に続くように思える時がある。しかし、その嵐の船の中に共におられる方がいる。それは共に重荷を負って下さるイエス・キリスト。日は変わり、雨や嵐の日もある。私たちの思いも変わりやすい。しかし、神のことばは決して変わらない。

2.同労者がいる

 パウロはアクラとプリスキラに出会う。また、シラスとテモテがマケドニヤから下ってきてパウロを支えた。神は共に祈り合い助け合う人々を備えられた。これは私たちクリスチャン、教会の姿。私たちは共に笑い、共に泣き、共に励まし合い、共に仕え合う。このような交わり、同労者が人生に希望と励ましを与える。私たちは一人ではない。信仰を共にする愛する兄弟姉妹がいる。その交わりによって、福音宣教がなされ、信仰生活は前進し続けるのである。

3.わたしという存在

 神は、全ての者がパウロのようになることを望んでおられない。あなたは、あなたでよい。互いに協力し、重荷を担い合う時もある。私という存在がキリストの体という教会に継ぎ合わされて生かされている。舞台公演には、表舞台の人もいれば、舞台裏の助け手もいる。影の働きは欠かすことができない。私たちが何をするにしても、お互いは神の家族としてのメンバーであり、福音宣教のパートナーである。教会はキリストのからだである。神は、私たちそれぞれを福音宣教の舞台で輝かせて下さるのだ。                     (山本牧師) 

2018年5月20日(日)

 在原繁宣教師(アルゼンチン宣教師)

「主の時は美しい」  聖書箇所:伝道者の書 31011

 私たちの信じる神は真実な方(詩篇84:12)。逆境の体験の必要性。神の祝福を受けるために己に絶望する体験をした。心砕かれてへりくだるという体験。1988.1.24にブエノスアイレスへ。現地の人々が入っていけないところへ入っていくのが宣教師の使命。福井県の宣教を思う時、目頭が熱くなる。福井にも奥地へと宣教師が入っていった歴史がある。アルゼンチンでは日系人クリスチャンや沖縄から移住した人々がいたが「悪いこと言わないからやめろ。」と言われた。行こうとしているミシオネスは、1250キロと遠く、惨殺、自殺、一家心中、病気が多かった。そのような声に肘鉄をくらわすようにしてパラグライとの国境に家族5人向かった。気温40-47度、危険、麻薬の地域。到着後、立ち尽くす。「ここで勝てるだろうか。勝てない。」そこで神の約束を思い起こした。「わたしがともにいる。」(詩篇77:7-9,11-12)。思い起こす時、信仰が与えられる。
 
1984に召命を受けた。山中湖キャンプ場で祈っている時、アクセルソン宣教師と一緒に祈った。異言のあと、英語で解き明かしがあった。「あなたを召したのは、わたし全能の神である。必要は満たされる。」お金の心配は要らない。同じような預言が3回あった。KBIでスンベリご夫妻と祈ったとき、奥様が異言で語った。英語で解き明かしがあったが前と同じであった。その後、神の声をはっきりと聞いた「日本での戦いは終わった」と。ちょうどその時「JICAで入国許可がおりた。永住権が与えられた。全額JICAが払ってくれる許可が下りた。」と連絡があった。

 6年前、おばあちゃん6人だけの教会が、第二次リバイバルによって礼拝は500600人になった。聖霊の働きは壁をぶち破る。みことばと聖霊と血潮の力である。聖霊に満たされたある女性と出会った。その教会に「日本から宣教師が来る」と預言があった。「それはあなたです。」と言われた。アルゼンチンに降り立った時、「その方が来ました」と預言があった。私たちの信じるお方は徹頭徹尾、真実である。                  (文責:山本牧師) 

2018年5月13日(日)

「勝利の鍵」  聖書箇所:士師記 7 21525

1.神の戦略に従った

 兵が減るという戦略は、人間的な目から見ると、あまりにも愚かな戦略である。武器は角笛、からのつぼ、たいまつであった。なぜ神は、そのようになされたのか。その理由は、イスラエルが「自分の手で自分を救った」と言って、神に向かって誇るといけないからだ・・・ということ。

 神の戦略の角笛を吹き鳴らすことで敵は驚き、つぼを打ち砕く音で敵を恐れに追いやった。暗闇の中で、この出来事は敵を同士討ちへと導いた。私たちは、自分自身、自分の自我というつぼを打ち壊し、福音のたいまつを振りかざして、角笛を響かせよう。神による勝利は必ずある。

2.神の指示を仰いだギデオン

 ギデオンは、ミデアン人との戦いに臨み、神の事細かな指示に従った。神の事細かな指示に従うことは重要である。神のみこころを知るうえで最も大切なことは、自分の意志を脇に置き、まず第一に神ご自身を求めることだ。

3.神中心

 32,000人から300人の兵に減らされ戦ったギデオン。減ることは時には心細く、増えることは望ましいことが多い。もし、神が私たちに「減ること」を求められたら、私たちはどうするであろう。私たちにとって最重要なことは、増やすことも減らすこともでき、勝利を与えることも敗北を与えることもできるお方に信頼してついていくことである。私たちが全能の神に信頼して従うとき、主は結果として祝福を与えて下さる。「信仰的である」とか「霊的である」とは、有能であるかどうかではなく、完璧であるかどうかでもない。神と繋がっているかどうかである。 「あなたと共にいる民は多い」とは戦いにおいてなんと厳しい言葉であろう。しかし、数を超えた領域におられる全能の神に寄り添い従うこと、これこそが私たちの勝利の鍵である。

                                     (山本牧師

2018年5月6日(日)

「あなたとともにあるお方」 聖書箇所:ヨシュア記1111

 ここでは神がヨシュアに対して三つの重要なこと「主の命令」「主からの励まし」「主のご計画、目的」語っている。これらは、現在の私たちにも適用できる内容であろう。

1.主の命令

 「立って」とあるとおり、ヨシュアはモーセと同じ信仰の領域に立たなければならなかった。私たちにも主は言われる。「立ちなさい」「信仰によって立ちなさい」と。そして、「あなたがたに与えている。」と完了形として与えられている地へ向かうのだ。

 その時のヨルダン川は一年中で一番水量が多かった時期と言われている。自分の弱さを見つめ、離れないのではなく、彼はその弱さを神にささげた。ヨルダン川を渡ることは、神への全献身の現れである。それは、今の私たちにとって、弱さや人間的なこと、一切合切をキリストの十字架につけられたこととして捧げ、信仰によって一歩踏み出すことである。弱いことは恥ずかしいことではない。神の強さは弱さのうちに完全に働くからである。(コリント12:9

2.主の励まし

 私たちが人生を歩むとき、必ずヨルダン川を渡るような経験がある。その時、主は言われるのだ。「強くあれ。雄々しくあれ。」と。しかし、私たちはそのことに気づかず、踏み出さずにいる。神のことばを信じて一歩踏み出すとき、神の業はあらわされるのだ。

3.主のご計画、目的

 「あなたが栄える」とある。私たちが知るべきことは、神は私たちを栄える領域にまで導かれようとされているということ。私たちが祝福を受けることが目的である。つらさや孤独を感じ、試練の中にあったとしても、神が私たちをその中で整え、目的地へと導く過程であることを忘れてはならない。神は私たちを良い地に導こうとされているのだ。       (山本牧師) 

2018年4月29日(日)

「神に立ち返る祈り」 聖書箇所:詩編511017

 ダビデの生涯における最大の汚点は、バテ・シェバ事件である(サムエル11-12章)。ダビデは姦淫と殺人の罪を犯してしまう。しかし彼は、罪を指摘され心砕かれて七日七夜泣いた。神の前にただ一人、罪人として泣き崩れたダビデの砕けた心、それがこの詩篇に歌われている。

1.神のところへ

 「罪を犯すこと、悪を行うことは悪いことである。しかし、最も悪いことは神のところに帰らないことである。」ダビデは、生まれつき罪人であること、自分の中に自分で処分や対処できない原罪があり、神の前にいかに罪深く、弱い者であるかを知った。そして、自分ではどうすることもできない罪を悔い、ひたすらに神に救いを求めた。ダビデの素晴らしいことは、罪の中にあっても神の恵みを忘れなかったことである。私たちは、自分自身でどうすることもできない罪人であることを知り、そのことを神の前で悔い、堅い心が砕かれる時、キリストの十字架の贖い、罪の赦し、永遠のいのちの尊さを知るのである。

2.主がみられるところ

 神が関心を持っておられるところ、一番見ておられるところは、私たちの内面ではないか。私たちは、人の内側を見る神に祈るのだ(ローマ人への手紙7:1821)ダビデは言った。「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。」内面を洗い、きよめてほしいと神に願ったのだ。

3.楽しみと喜び

 私たちが神の前に真実に悔いる時、神は喜んで仕える霊を私たちのうちに与えられる。本当の悔い改めは感動を与え、喜びを与える。神は見せかけのものを喜ばれない(詩篇51:16-17)。 

 主が今日、私たちの傍らを通られる時、「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」と申し上げ、叫びをあげる備えを持ちたい。   (山本牧師) 

2018年4月22日(日)

「背負って下さる神」 聖書箇所:イザヤ書46章1~4節
 イスラエルの歴史を見るなら、主が民を背負い運ばれた事実を知ることができる。神が選び贖われた民であるゆえに、真実といつくしみ(契約に基づく愛)をもってそうされたのである。新約時代の私達に対しても主は同様に背負い、運んで下さっていることは大きな福音ではないだろうか。
 背負い運ぶというとき、水害で避難生活をされていたご老人の方を、自衛隊員が来て背負い持ち運んでいる映像を見ることがある。彼らはどんな危険な状況でも、そのご老人の絶対安全な場所である目的地へと移動させる、という強い使命感を持っている。
 主が私達を背負うとは、主は私達に対して全責任を持っておられることを意味している。地上の生涯を終えて天の御国の門に入るその日まで。背負われた小さな子供は母親に自分の全てを任せて眠ってしまう。子供の全体重を支えているのは母親の腕である。「下には永遠の腕がある」(申命記33:27口語訳)とあるように、復活された主がご自身の御腕で私達の全存在(生きるに必要な全て)を支えておられることに心に留めたい。
 この事実に心の目が開かれるなら、思い煩いや将来への恐れ不安は取り去られるではないだろうか。私達が常に主の愛の中に安息し、平安な心を保ちつつ自分の成すべき分を果たしていくことが主の御心である。
 十字架を負われた時からすでに背負われ、主が「完了した」(ヨハネ19:30)と言われた時、主の側では私達に対する全てのことは成し遂げておられるのだ。謙虚な心をもって主に信頼することを学び、約束のみことばに生きよう。              (川瀬協力牧師)

2018年4月15日(日)

「弟子たちの足を洗われたイエス」 聖書箇所:ヨハネの福音書13章1~15節
 最後の晩餐では二つのことがなされた。一つは、聖餐式(マタイ26:26-28)、もう一つは、弟子たちの足を洗われたこと。ここには感動がある。それは、本当は洗うべきでない方が足を洗うからだ。足を洗うことには、神の愛と、神の謙遜が含まれている。
1.無言で足を洗われるイエス
 イエスは何も言わず、黙々と足を洗い始められた。本当の愛、真実な愛には説明はいらない。愛の表れは、説明がなくとも表現されることであり、実践されることである。
2.イエスはしもべの姿をとられた。
 真実な愛は、支配者の姿ではなく、しもべの姿である。もし、高慢な態度で良い行いをしたとしても、そこに感動や感謝があるだろうか。しもべの姿ゆえに、感動と感謝がある。
3.イエスが足を洗われた姿には、行動が伴った。
 愛を唱えただけ、言葉だけ、精神論だけで、行動が無かったらどうだろうか。イエスの行動は、格好良くもなく、目立つことでもなく、素晴らしい奇跡でもなかった。イエスは、真実の愛によって行動された。神の御子が、神の御座におられることをしないで、しもべの姿でこの世に来られ十字架につけられ釘を打たれた姿は、この足を洗う姿と同じではないだろうか(ピリピ2:6-8)。
※水浴と足を洗うこと:足を洗うことは悔い改め、水浴することは救いを意味する。イエスを信じた人は水浴したのだ。しかし、人生を歩む過程で足が汚れるのである。足を洗うとは、日々の悔い改めである。罪を告白し、イエスの御名によって洗うのである(Ⅰヨハネ1:9)。
イエスは足を洗うことで、仕え合うこと、愛し合うことを示されたと同時に、救いと悔い改めを示された。今日もイエスは、私たちの足を洗って下さっている。イエスが弟子たち、そして私たちの足を洗われたことを感謝し、私たちも足を洗い合う恵みにあずかろう。  (山本牧師)

2018年4月8日(日)

「主の御声に聞き従う」 聖書箇所:申命記28章1~6節
1.「主の御声に聞き従う」
ⅰ「主の御声」:私たちは、他人、自分の声が優先されがち。優先すべきは、神の御声である(ローマ12:2)。神の御心を知るために、自分が変わろうと願う人は幸いである。
ⅱ「聞く」:聞くことは、心で「これは主の御心だ」と理解すること。忘れやすい私たちのために、神は聖書を与えて下さった。
ⅲ「従う」:従うことは船を転覆させないおもりのようなもの。従順は、順境の時も逆境の時も、倒れ転覆することがないように私たちと神を結び付けるものである。
2.神の思い
 神の人間に対する本来の目的は、呪うことではなく、祝福すること。神は、時に、受け入れがたいほどの苦しみを通しても、私たちを祝福される。理解できない苦しみがあるとすれば、それ自体で終わるのが主のご計画ではない(エレミヤ29:11-14)。神の私たちに対する結論は、呪いではなく祝福。そして神は、既にキリストにあって私たちを祝福して下さった(エペソ1:3)
3.従順から得る神の祝福
ⅰ神の祝福は環境に左右されない:町であれ野であれ、田舎であれ都会であれ、一番重要なことは、その場所で神に従順であるかどうか、である。何をどれだけ持っているかではなく、誰と一緒にいるか。主に従う人生こそが祝福だ。
ⅱ神の祝福は周囲に影響を与える:私たちへの神の祝福は、子孫にも及び、動物にまで及ぶという。所有物の、かごやこね鉢さえも。祝福は一人のものだけではない。神は、私たちの人生を通し、神の祝福をあらわしたいと願っておられる。          (山本牧師)

2018年4月1日(日)

「エマオの途上の二人の弟子」 聖書箇所:ルカの福音書24章13~35節
 イースターは、主イエスが復活を祝う日。イエスが十字架で死なれたことと同時に、死に勝利してよみがえられたことは大事である。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。
1.あなたの傍らに来られるイエス
 二人の弟子は、イエスが死なれたので、悲しみと絶望の中にあった。彼らの目はさえぎられ、心の鈍い人になっていた。私たちにも、問題や失望、悩みはある。問題は、私たちの霊性、信仰が健やかであるか、イエスにまっすぐ向いているかである。イエスは、失望の中にある人の傍らに来られ、弱さ、苦しみ、失敗に付き合われる。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ:11-28-30)
2.イエスを招く心
 イエスはまだ先に行きそうであったが、彼らは、無理に一緒に泊まってほしいと願った(ルカ24:28)。イエスは招かれない限り、家に泊まることはない。家を心に言い換えるならば、イエスは私たちが心を開かない限り、招かない限りとどまることはない。
3.イエスは私たちの覆いを取り除く方である
 「心はうちに燃えている」(ルカ24:32)とは、聖霊の内住があり、心がその真理に感動している状態であろう。私たちのうちに炎はあるが、「心配」という覆いが大切な炎を輝かせない。心が燃えていても、覆われているとイエスが分からなくなる。私たちの心配によって私たちが沈んでしまわないようにとイエスは願っておられる。
 主は、私たちに対しても、聖書を通して覆いを取り除き、内にある炎に気付かせて下さる。心燃やされて、復活されたイエスをともに喜び歩もうではないか。      (山本牧師)

2018年3月25日(日)

「苦しみ祈るイエス」 聖書箇所:ルカの福音書22章44節

 イエスがゲッセマネの園に弟子達を連れて行かれた目的の一つは、サタンが挑んでくる誘惑に勝利する道は祈りにあることを教えたかったのだろう。イエスの祈りの生涯における集大成ともいえる祈りであった。
 悶え苦しむイエス。ルカは省いているが、マルコは主が「深く恐れもだえ始められた」と記している。なぜそんなにと私達は思うが、その理由はイエスの死が聖徒の死ではなく(例としてステパノ)、全人類の罪を担った贖いの死であったことを覚える必要がある。
 人類を罪と死から救い出すためには、どうしても罪なき神の子が人類のすべての罪を背負い、人類に代わって神の裁きを受けなければならない。永遠の昔から一瞬なりとも父の愛から離れたことのない御方が「御父と断絶する苦悩」が苦しみ悶えた理由である。それと悪魔との壮絶な戦いにあった。サタンは主が十字架にかかることを何とか阻止しようと、総勢力をもって主イエスを潰そうとした。もし、御使いの力づけがなかったなら、主は力尽きてしまったのかもしれない。それほどに霊肉の戦いの激しいもであったが、主はそれが父の御旨であることを確信し、勝利をもって神に服従されたのである。
 私達の祈りはどうだろうか。自分の願いを率直に御父に申し上げるとともに、「しかし、私の願いではなく、御心の通りにして下さい」と主の愛に信頼し委ね切る祈りを捧げたい。平安と勝利をいただく道は、主への服従にあることを覚えよう。        (川瀬協力牧師)

2018年3月18日(日)

「彼らの信仰を見て」 聖書箇所:ルカの福音書5章17~26節
?この出来事の場所には、パリサイ人、律法の教師たち宗教指導者がいた。彼らは、イエスが罪を赦す権威を持っていることを認めることができなかった。罪を赦す権威があるのは神のみ。彼らは、この真理に対して目が開かれず、イエス・キリスト=神とは思えなかった。
1.近くの患っている人
 私たちの近くに、救いの必要な人、イエスのところに行くべき人がいるという現実がある。教会の中かもしれないし、自分自身かもしれない。中風の人とは、脳溢血(のういっけつ)の後遺症で、体の一部、または全部を動かすことができない状態の人のこと。男たちがこの中風の人を運んできた。私たちは、誰かによって、また誰かのきっかけによって教会や集会に来た人も多いのではないか。同じように、私たちのそばにも、イエス・キリストを必要としている人がいる。
2.彼らの信仰
 彼らの信仰には「協力」があった。彼らは同じ方向、同じ志、同じ信仰で進んでいる。四人の男たちの姿勢はイエスに対する祈り、信頼、中風の人への愛でもあった。祈り心をもって励まし合い、前進する姿。それは、私たちが一人の魂を思って祈る姿であり、家族、友人、地域、教会のために祈る姿だ。屋根に上り天井に穴をあけ、イエスのところにつり下すという大胆な行動。信仰は最後まで「あきらめない」こと。信仰は、創造力、知恵が与えられ、信仰は行動に現れる。
3.主がご覧になる信仰
 「彼らの信仰を見て、」とあるが、それは、屋根をはがして中風の人がつり下された信仰の姿。イエスが見られたことは、イエスのみもとにやってくるまでの、彼らのすべての行程、思い、祈り、愛の姿の信仰ではないか。私たちは、パリサイ人や律法の教師たちのように盲目にならず、全ての信仰の歩み、人生の行程を見ておられるイエスに近づこうではないか。

                                     (山本牧師)

2018年3月11日(日)

「仰ぎ見れば、生きる。」 聖書箇所:民数記21章4~9節
 「民数記」の主題は、「神の民の訓練」である。また、詳しく見ると三つの教訓がある。一つ目は、救われた者は奉仕をして神に仕えるべきである。二つ目は、奉仕と歩みのためには、秩序が必要。三つめは、信仰生活には、不信仰との戦いがある。ということである。
1.不平は人と隣り合わせ
 何と、民たちは再び不平を募らせ、神とモーセに逆らった。「我慢できなくなった」とき、心の中のいろいろな思いが一挙に噴き出してしまうのが人間の常ではないだろうか。感謝よりも不平・不満を愛しているかのようだ。私たちは、忍耐しきれないために、神の祝福を失うことがある。
2.私たちのそばにある燃える蛇
 「燃える」とは毒による熱い、火のような痛みを表す。また、燃える蛇自体は、この世の毒、罪、呪い、そしてサタンを表している。今の時代の私たちの間にも不平不満はあり、同時に、この世に蛇の毒は蔓延している。私たちは、私たち自身がこの毒から守られるように、また、多くの人々が守られるようにとりなして祈る必要がある。
3.イエス・キリストを仰ぎ見よ
 青銅の蛇は神の手段であり、イエス・キリストを示している(ヨハネ3:13~15)。「・・・モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、・・・永遠のいのちを持つためです。」燃える蛇は呪いの象徴であり、イエス・キリストは十字架上で呪われた者となられた。
 仰ぎ見るということは、背後にある神の御手、救いを見ること。キリストは十字架にかけられ、青銅の蛇となられた。全人類の呪い、罪のさばきをその身に負われたのだ。青銅の蛇を仰ぎ見た者たちの口は、以前は不平を言ったが、神への賛美へと変えられた。 (山本牧師)

2018年3月4日(日)

「何を見ているのか」 聖書箇所:民数記11章1~23節
  「民数記」の主題は、「神の民の訓練」。詳しく見ると三つの教訓がある。一つ目は、救われた者は奉仕をして神に仕えるべきである。二つ目は、奉仕と歩みのためには、秩序が 必要。三つめは、信仰生活には、不信仰との戦いがある。ということ。
1.感化されやすい人間
 イスラエル人の中に、外国人が混じって来ていた(民11:4)。彼らの不平は「ああ、肉が食べたい」というものであった。いつの間にか、かつ ての奴隷生活が、貴族の生活のように、華やかに見えていたのである。人は、苦しい状況に会うと不安になり、人の意見に影響されやすい。
2.人はすぐに飽きてしまう傾向がある
 人は苦しくなると過去を思い、食べ物が無くなり飢える時には弱くなる。荒野とは、夢と理想を失い、期待が無くなること。民は、 苦しい現実の中で神の奇跡、祝福、約束を忘れてしまった。 私たちは、天のマナで満足しているであろうか。私たちが、神の事柄、天の事柄に対して、感動しなくなっているならば気を付けなければならない。この世が第一であったり、奉仕が機械的になったり、つぶやきが出る時、それは天の神から離れてしまっている表れである。
3.何を見ているのか
 私たちは、ただ中におられる主(民11:20)をないがしろにしてはならない。一見、苦しく、助けがないときも、主は愛する者を忘れることはない。彼らは「このマナを見るだけだ。」と書いてある通り、目先のマナを見るだけであった。そのマナを日々与えてくださるお方を知ろうとはしなかった。私たちはマナばかり見て、マナを降らせてくださった主を見失っている場合が多い。人生の荒野で発見すべき祝福は、「何を持っているか、何をたくさん持っているか」 ではなく、「誰と共にいるか」である。「・・・だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタ イ6:31-33)

                                    (山本牧師)

2018年2月25日(日)

「栄光に輝くイエス」 聖書箇所:マルコの福音書9章2~10節
 イエスの公生涯で転機となったのは、第一回目の十字架予告の時である(同8:31)。皆から歓迎され「ガリラヤの春」から一転し、エルサレムの指導者たちから憎しみを受け排斥される。主はこの頃から弟子達にあからさまに話されるようになった。弟子達は強い衝撃を受け動揺し戸惑った。十字架への道を歩む主への父の励ましがエリヤとモーセの出現であった。
1.主の変貌(マタイ17:2、3)
 「変わり」の原語の意味は、さなぎが蝶になることを意味する。本来イエスは、神の子としての栄光をもたれた方であったが、その神性は人の姿をとって誕生した時から肉体という幕屋の中に隠して暮らすようになった。しかし公生涯で一度だけ本来もっておられる栄光が体の幕屋を通過し外に輝きでる瞬間があった。それがこの変貌の出来事である。主にとって十字架の後にお受けになる栄光の前触れであった。
2.エリヤとモーセの出現
 イエスこそ、律法の授与者モーセと預言者を代表するエリヤに支持されたメシアであることを明らかに示された。臨在の雲におおわれ、神の栄光、聖さ、尊厳に出会ったペテロは恐れおののきつつも、こんな素晴らしいものはない、ここにずっといたいと叫ぶ。
3.栄化される保証(Ⅱペテロ1:16~18)
 この出来事は、主イエスが再臨される時にすべての聖徒達から崇められることを予表している。復活の望みを持ちつつ勝利ある歩みをさせていただこう。  (川瀬協力牧師)

2018年2月18日(日)

「聖別された者」 聖書箇所:レビ記11章1~12節、44~45節
■レビ記
レビ記を貫く主題は神の「聖」。聖なる神に近づく方法について教えられている。
1.食物規定
・「反芻すること」:「思い巡らす」「熟考・黙想する」という霊的意味。何でも鵜呑みにするのではなく、良い物(神のことば)を食べる必要がある。
・「ひずめが分かれていること」:ひずめが分かれている動物は、高所に登る。神は、私たちが神を第一とし、神のご性質にあずかり信仰の高嶺に登ることを願われる。
・「うろこ」:心のよろい。環境からくる悪影響に抵抗する。
・「ひれ」:水中を前進するためのもの。神は、私たちが神と共に前進することを願っておられる。
新約時代の今、福音によって救われた者は食物規定に縛られない。しかし、「聖なる者となりなさい」という命令は、今も有効な命令だ(Ⅰペテロ1:16)。
2.外側から、内側から
「人から出るもの、これが、人を汚すのです。 ・・・これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ7:14~23)。イエスは私たちの内側から出るものが、私たち自身を汚すのだと言われた。神は、区別されるお方。「神は聖である」とあるが、「聖」には「区別する」という分離の概念がある。サタンは、「区別する」ことを曖昧にするため人間に近づいた。神は「区別すること、聖別すること」を教えておられる(ローマ12:1~2)。
3.イエスの御業によって
食物規定はコーシェルという。それは「受け入れられる」「正しい」とも訳される。その逆は、テレファといい「野生動物によって引き裂かれたもの」「不適切なもの」を意味する。イエスは私たちのために、十字架で身体を引き裂かれてテレファ(不適切な者)となられた。故に、私たちはコーシェルな者(受け入れられる者、正しい者)とされた。       (山本牧師)

2018年2月11日(日)

「どうか、あなたの道を教えてください。」 聖書箇所:出エジプト記33章5~17節
 天幕では神が共に住み歩まれることが重要であった。しかし神は、イスラエルの民と一緒に上らない、と言われた。それはイスラエルの民が「うなじのこわい民」であるから。神の歩みと歩調が合わない民。私たちの歩調(呼吸)は、聖霊様とあっているであろうか。
1.どうか、あなたの道を教えてください
 モーセの生涯を見る時、超自然的なしるしや奇蹟に満ちている。しかし、モーセが第一に神に求めたのは「神のわざ」ではなく「神の道」であった。神ご自身もモーセに対し、まず第一に知らされたのは、神の「わざ」ではなく「道」であった(詩篇103:7)。私たちがまず求めるべきことは、神ご自身の臨在であり、神の道である。
2.顔と顔とを合わせて
 モーセの特徴は、神との親密なコミュニケーションである(出エジ33:11)。神は、ご自身の友となる人を求めておられる。祈りは一方的に神に願い事を申し上げて、それで終わりではない。神からの語りかけも、祈りの欠かせない要素だ。祈りは神との会話であり、祈りというコミュニケーションを通して、御霊の導きを知る。
3.神への真剣な態度
 モーセの祈りから、神への真剣な態度を見ることができる(12~23節)。第一の願いは「あなたの道を教えてください」。第二の願いは「民が神のお心にかなっていることは何によって知られるのでしょう」。第三の願いは「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」。この祈りに対し、神は友と語り合うように答えられた。なぜ神はモーセの祈りに答えたのだろう。それは、真剣に祝福を求める者、真実に悔い改める者に対し「神は負けるのが好き」なのだ。人生の目的は、単に御業を求めるのではなく、その御業を行われる神を知ること。私たちは神のご臨在、神ご自身を、真剣に求めていこう。真剣に求めていく時、神は負けて下さる。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」ヤコブの手紙4:8

                                     (山本牧師)

2018年2月4日(日)

 「記念すべき日」 聖書箇所:出エジプト記12114 

1. 過越しの子羊は、キリストをあらわしている。 

 めいめいが羊を、自分の食べる分に応じて分けた(創12:4)。救われることは個人的にキリストを信じることだ。「傷の無い一歳の雄羊」は、傷も汚れもなく、罪のないイエス・キリストが、人間として体も心も充実した時に十字架にかけられたことをあらわす(ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」)。子羊は夕暮れにほふられた。「夕暮れ」とは、「バイン・ハ・アルバイーム」(へブル語)「二つの夕の間」といい、昼12時から午後3時までの小夕の供え物、午後3時から午後6時までは大夕の供え物の間。つまり午後3時。キリストが十字架につけられ、息を引き取られたのはいつであろうか。この午後3時である!「苦菜」とは、イスラエルの人々が、エジプトにおける苦しみとキリストの十字架の苦難を象徴している。子羊の肉は、火に焼く。これは全身をささげることを意味する。キリストは、全身を捧げられた。 

2.二本の門柱とかもいにつけられた血 

 門柱とかもいに血をつけるということは、「人間の在り方、人間存在そのものに血が塗られた。」ということ。血は「命」を象徴している(レビ17:11ヘブ9:22)。家の中にいた人たちからは、小羊の血は見えなかった。これを見る方は神ご自身である。今の私たちにとって、神はイエス・キリストの血によって覆われた私たちをご覧になり「良し」とされたのだ。 

3.主の裁き 

 子羊の血を塗ったために、裁きを免れた。神は門柱とかもいに塗られた子羊の血を見て、イスラエル人の家々を通り越された。私たちの裁きは免れているであろうか。 

4.記念すべき日 

 私たちの記念すべき日、それは、イエスを信じた日である。私たちの心の門柱とかもい、そして全身がイエスの血潮で覆われているのだ。過越しの小羊「イエス・キリスト」は私たちの命の身代わりとなられた。その記念すべき日を、私たちは喜ぼうではないか。                              (山本牧師)

2018年1月28日(日)

 「主の御心である、僕の道」 聖書箇所:マタイの福音書2026

 私達が主に奉仕し仕えることは、動物に譬えるなら「ロバ」が相応しいように思う。ロバは強情さがあるが、調教されると忍耐強く実によく働き、主人の貴重な財産となった。私達は皆、あのイエスをお乗せしたロバの子に過ぎない。

1.三度目の十字架予告(1819節)

 イエスが受難週を迎えられる一か月位前の頃である。イエスの死の意味も目的も悟れない弟子達は、イエスの後姿に不安と恐れを覚えた。(マルコ1032)生まれながらの人間にとって、十字架ほど愚かに思えるものはない。十字架を理解するには、主に心の目を開いていただく必要がある。

2.弟子達の思い違い

 弟子達はイエスがメシアとしてローマ帝国をユダヤの下に置き、地上天国を建設すると思っていた。メシア王国を夢見る彼らと、これからイエスが贖いの死を遂げた後にもたらされる神の国とは何と大きな違いがあることだろう。

 ⅰ.御心と程遠い願い(21節)。ヤコブとヨハネは母まで動員して御国における最高位を求めた。彼らはペテロを出し抜こうとした。身勝手な自分ファーストな願いである。

 ⅱ.霊的無知と高ぶり。彼らの順位論争は最後の晩餐席上まで続く。砕かれる経験なしに人は変わらない。

3.主の御心である、僕の道(2628節)

 ⅰ.イエスの模範。主が弟子達の足を洗い互いに仕え合うことを教えられた(ヨハネ13)。

 ⅱ.仕えることは祝福の道(同17節)。私達は祈り支え合う交わりを大切にしたい。主イエスを仰ぎ、十字架をみつめ、僕としての道を歩ませていただこう。                      (川瀬協力牧師)

2018年1月21日(日)

 「幸いなるかな」 聖書箇所:マタイの福音書5116 

 非常に有名な「山上の説教」や「山上の垂訓」などと呼ばれている箇所である。イエス様は、群衆を見て、山に登り、座って話を始められた。イエス様は、腰を下ろし座ることでご自分の権威を明らかに示された。また、群衆はその権威のゆえに驚いた。 

1.幸いなるかな! 

 第一声は「幸いである。」ということばである。心からほとばしり出た感嘆のことば、称賛のことばである。文語訳聖書では「幸いなるかな」。このことばを9回にもわたり繰り返し言われた。その目的は、「幸いである」を最高に強調するためである。 

2.八つの幸い 

 前半の四つは神との関係、後半の4つは人との関係の幸い。「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」「義に飢え渇いている者」「あわれみ深い者」「心のきよい者」「平和をつくる者」「義のために迫害されている者」。それは、自分を知る謙遜な人であり、神から離れた存在であることが分かり、自分の無力さを徹底的に知らされた人、ひたすら神と神の義に寄り頼む人である。また、自分の罪深さを悲しむと同時に、神との交わりに生き、周りの人々のことを思う人であろう。 

3.地の塩、世の光 

 塩はこの世の腐敗から守る役目がある。塩はまとまっていては意味がない。塩は調味料であり味がはっきりと増す。私たちには、愛と希望をもたらすはっきりとした味付けの役目がある。私たちは幸せな人だとイエス様は言っておられる。幸せに生きる人生を、イエス様のもとに来る人に惜しみなく与えて下さるお方である。キリスト教の教えは幸せのメッセージである。イエス様は、私たちを愛し、幸せに生きるようにと十字架という絶大な犠牲を払って下さったのだ。この幸せを体験しつつ、神を愛するように隣人を愛し、主の愛と幸せを感じながら精一杯人生を歩もうではないか。                                          (山本牧師)

2018年1月14日(日)

 「私を祝福してくださらなければ」 聖書箇所:創世記322232 

 ヤコブは非常に人間的で、ほめられた性格ではなかった。しかし、神はヤコブの生涯に介入し、彼を砕き、聖別し、祝福された。私たちは、彼の人生から、欠点だらけのものをも恵みの中で取り扱い、砕き、新しくして下さる神の御手を知ることができる。 

1.ヤコブとエサウの再会 

 ヤコブは兄エサウのもとに使いをやった。彼は400人という人数に対し、恐れ、心配した。彼は策を練った。まず人間的工夫。宿営を2つに分け、どちらかは逃れるだろうという策。次に祈り。神との契約と、神の恵みに感謝する祈り。最後の策は贈り物。贈り物の群れを数回に分け、先にエサウのもとへ行かせるようにした。 

2.神との格闘 

 彼は一人ヤボク川に残った。人間的には準備万端であったが、まだ彼には恐れがあった。そこに「ある人」が現れ格闘した。それは「神ご自身」。格闘するとは、泥まみれになること。「格闘する」はヘブル語で「ヤーベク」という。「ヤコブ」は「ヤボク川」で神と「ヤーベク」したのだ。彼は明け方まで格闘し、もものつがいを打たれた。ヤコブを支えてきた人間的、肉的な性質、自我が砕かれたのだ。そこまでになっても彼が主に求めたもの、それは「祝福」である。 

3.戦ったことの本当の意味 

 ヤコブが今まで戦ってきたのは、神と戦ってきたことであった。「祝福する」と言われた神がおられるのに、神のご計画に対して、自分の方法で戦ってきたのだ。彼が告白した「ヤコブです。」とは彼の人格、人生すべてを含んでいた。彼の自我は砕かれた。そして祝福をいただいたのだ。神は生きていると知りながら、自分の方法で生きようとしても本当の幸せを手にすることはできない。自分で戦ってきた人生を振り返りながら、へりくだり、今日、私たちは求めようではないか。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と。   (山本牧師)

2018年1月7日(日)

 「神への祈り」 聖書箇所:創世記181633 

 タイトルは「神への祈り」。「自分の願いをかなえる祈り」というよりも、とりなしの祈りについて。 

1.神に知られている 

 どうして神は、ソドムとゴモラの裁きをアブラハムに示されたのであろう。一つは、アブラハム契約を通して。「アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される」という、契約が成就すべき。今、ソドムとゴモラが除外されようとしている。もう一つ、神は、アブラハムの霊的な資質を「知っておられた」から。創18:19(口語訳聖書)では、「わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは・・・」とある。注目すべきは、「彼を知ったのである」と訳されていること。その「知る」とは、「経験的に知る」「親密に知る」という意味。神は、アブラハムを経験的に知っておられた。神は、アブラハムが神の友であるがゆえに、隠しておくことはされなかった。 

2.とりなしの祈り 

 アブラハムは、ソドムに住んでいるロトのことを心配し、執りなしの祈りを始める。 

①「主に近づく」姿。これは礼拝の姿勢である(創18:23)。②「大胆」に神に願う姿(創18:25)。③「謙遜」に神に願う姿(創18:27)。④「しつこく、執拗」に神に願う姿(創18:23-32)。⑤「具体的」に神に願う姿(創18:23-32)。これらが、とりなしの祈りの本質である。 

3.祭司としての祈り 

 アブラハムの祈りは、「正しい人がいれば滅ぼされるのですか」という祭司的な祈りであった。彼の信仰には、神に近づいて大胆に祈るという、自分のためだけに祈るというものではなく、かえって自分を顧みない「自己犠牲」の愛を見ることができる。この祭司としてのとりなしの祈りは、私たちクリスチャンにとって使命であり、実践すべきことである。主よ、祈りの霊を、さらなるとりなしの祈りの思いを私たちに注いでください。      (山本牧師)