2019年12月29日(日)

2019年12月22日(日)

「闇の中に輝く光」 聖書箇所:ヨハネの福音書1章1-14節

 私たちが心を開き、聖書のことばを信じて受け入れるならば、心に光が差し込んでくる。

 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです(ルカ2:11)。」

 このことばは、はじめに羊飼いに語られた。この時代、羊飼いはさげすまれた人々。喜びの知らせが、暗闇にいるような羊飼いに最初に届けられた。彼らは、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。羊飼いたちの人生に大きな喜びが生まれた。

1.絶望という暗闇から光へ

 数年前の統計だが、2万5千人の人々が自らの命を絶っている。絶望という暗闇の中に多くの人々がいる。絶望はどんな人の心にもやってくる。

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった(ヨハネ1:4)」。イエス・キリストは、どんな人の心にも光となって下さるお方である。

2.罪という暗闇から光へ

 罪責感は悪影響を与える。自信を無くさせる。人間関係を悪化させる。人間関係が深まることを恐れる。過去にとらわれる。

 光として来られたイエス・キリストは、私たちの罪のために身代わりとなり十字架にかかって死なれた。キリストを信じることによって、神の子どもとされる特権が与えられた。

3.死という暗闇から光へ

 聖書は、私たちを暗闇から光へと導く。孤独を癒し、不安から解放し、思い煩いから助け、罪、絶望から救う。死の恐れからも助ける。イエス・キリストは、三日目に死からよみがえり死に勝利した。イエス・キリストを受け入れる時、キリストの死と同時に私たちも死に合わさり、死への勝利にも合わせられている。「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです(ヨハネ5:24)」。あなたの暗闇が光へと導かれますように。 山本牧師)

2019年12月15日(日)

「今、強くあれ。-主の御告げ-」 聖書箇所:ハガイ書2章1-9節

1.ハガイ

 神殿建設がストップしていた。ハガイは立ち上がり「皆立ち上がり、神殿建設をもう一度やり遂げよう。」と励ました。彼は「今、強くあれ」と、彼らの不信仰を指摘し、励ましを与えた。

2.第一とすべきこと

 ハガイが神から受けた預言の中心は、「神が第一であるかどうか」である。これは私たちにも言えること。生活においても、仕事や家庭、奉仕においても、神を第一としているだろうか。私たちは神に選ばれている。選ばれた者として神を第一にしているだろうか。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。(ヨハネ15:16)」

3.強くあれ

 神から強くされることが大事。そのためには、必要なこととは。

ⅰ)使命の確認

 ハガイ1:2「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

 人々は神の計画を勝手に遅らせた。世に支配され、自分中心になっていった。主からの導きをないがしろにすると、私たちの力は、神のためではなく違うことに使われる。彼らの使命は神殿建設を成し遂げること。あなたの使命は何であろうか。

ⅱ)主への期待

 信仰の力が弱くなると、主を喜べず心が荒れる。現実の物事しか見えなくなり、その背後にある神の姿が見えない。

 信仰の力が弱まっていないか。自分を主の宮として建て上げよう。主の教会を建て上げよう。

 このクリスマス、主に更なる期待をもって。(山本牧師)

2019年12月8日(日)

「天地に満ちる神とともに」 聖書箇所:ヨナ書1章1-17節

 ヨナは、ニネベが悔い改めるとイスラエル民族が危機に陥ることを懸念したため、神の言われるとおりに悔い改めを促すことに抵抗した。彼はタルシュシュに向かう船に乗った。その時、大嵐が起こり、海に投げ入れられ、魚に飲み込まれた。

1.神の視野

 主の視線から身を隠すことのできる者はだれもいない。海に投げ込まれたヨナが大きな魚に呑み込まれたことも、彼の心を変えるための善い意図から出た神の御手によること。 神は、私たちにも良い人生の計画を持っておられる。(エレミヤ書29:11)

 自分の道を行こうとする時、思いがけない壁にぶつかる時がある。それは、神が用意しておられる道に戻そうとする、御霊の働きだと知ることはないだろうか。

2.神からの任命

 ヨナは異邦人の救いという神のみこころを知っても、自分の思いが優先した。彼の狭い考えは正さなければならなかった。

 全知全能の創造主である神は主権者。世界のあらゆる被造物を用いて私たちを訓練される。それは私たちの成長、有益のため。生活の中の、多くの出来事の背後には、神の愛の御手がある。そのことを忘れてはならない。

3.神の愛

 ヨナ書から分かることは、イスラエルだけでなく、異邦人、さらに家畜さえ惜しむ神の愛である。

 ヨナは悔い改めを語り、ニネベの人々は神のことばを受け入れて悔い改めた。ヨナはわずかなとうごまを惜しんだが、神はニネベの人々と家畜を惜しんだ。神の愛は、異邦人にも世界中の人々に及んでいる。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)(山本牧師)

2019年12月1日(日)

「ヨハネの涙と神への賛美」 聖書箇所:ヨハネの黙示録5章1-14節

 ヨハネの黙示録の4~22章は、将来起こることの預言。福音書の中心テーマはキリストの初臨、黙示録のテーマはキリストの再臨。黙示録は私たちをキリストの再臨の時に備えさせる。

1.7つの封印で封じられた巻き物(5:1~)

 御座に座っておられる父なる神の右手に巻き物があった。巻き物とはギリシア語で「ビブリオン」といい、聖書(バイブル)の語源。この巻き物には、両面に文字が書き記されていた。

 この巻き物を誰が解くことができるのだろうか。ひとりの強い御使いが大声で呼ばわった。その巻き物を開くことのできる者は、この世界にはいなかった。ヨハネは、巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、激しく泣いていた。

2.ヨハネの涙

 ヨハネは激しく泣き続けた。どうしてであろう。彼には、この後起こること、神のことばを知りたいという強い渇きがあった。神の書物が開かれないことへの悲しみがあった。

 私たちには神のみことばへの真剣な渇きがあるであろうか。この世に対する危機感を持っているであろうか。主に飢え渇きの心を与えて下さいと祈ろうではないか。

3.イエス・キリストへの賛美

 長老の一人が「泣いてはいけない」と言った。「ユダ族から出た獅子」であるイエス・キリストが、巻き物を開いて七つの封印を解くことができるお方。

 その小羊であるキリストが、御座に座る方の右の手から巻き物を受け取った。ヨハネは、父なる神の御座と長老たちの間に子なる神を見た。小羊は、今は生きている。

 被造世界のあらゆるものがこの礼拝に参加した(黙示録5:12-13)。この方には力、富、知恵、勢い、誉れがあり、栄光を受けられる方。このキリストに賛美を捧げるのだ(ピリピ2:10-11)。

 黙示録は恐れの書ではない。希望を与える書なのである。(山本牧師)

2019年11月24日(日)

「神に認められる人」 聖書箇所:ダニエル書6章19-28節

1.そうでなくても

 ネブカデネザル王が造った金の像を拝まないならば燃える火の炉に投げ込まれることを聞いた時、三人の信仰者は「神は火の燃える炉から救い出して下さる。もしそうでなくても、私たちはあなたの神々に仕えず、金の像を拝むことはしない」と答えた。

 「たといそうでなくても」。このことばが、彼らの信仰を物語っている。自分の思い通り、期待通りにならなくても、そこに神の御手が必ずあるということを確信して、神を信じ貫くことばを言った。

2.神への祈りと感謝

 「・・・彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」(ダニエル書6:9-10)。

 彼は、自分の命が危なくても、神に祈り、しかも感謝をささげていた。

 感謝できない時に感謝をする。そのことはとても難しい。しかし、わたしたちの内にある聖霊は私たちを励まして下さるのである。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。・・・なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:24-27)

3.神はあなたを見ている

 愛してやまない神の眼差しがダニエルの上にあった。神は、私たちがどんな状態であったとしても、目をそらせず私たちに関心をもっておられる。

 ダリヨス王には神への信仰が無かったが、ダニエルの姿からダニエルが信じる神に期待する思いがあった。ダニエルの神への忠実な日々の姿が、王に影響を与えた。

 「それは私に罪のないことが神の前に認められたからです」(ダニエル6:22)。私たちは、イエスを信じる信仰のゆえに、ダニエルと同じくようにこのことばを言うことができる。神は信仰によって日々歩む姿を見ておられる。困難であっても、神に信頼を置いていこう。 (山本牧師)

2019年11月17日(日)

「新しい神の民」 聖書箇所:エゼキエル書36章22-28節

 イスラエルはバビロンによって滅ぼされてしまい瀕死の状態であった。エゼキエルとは、「神は励ます」「神によって励まされた」という意味がある。今日の私たちにも神は励ましを与えて下さるお方である。

1.主権者

 「わたし」ということばが多く出てくる。神は、「わたし(神ご自身)のため」という。人によって汚された神が、あえて、人を救う。これが、神のみこころである。私たちを救うこと、私たちを愛していることは、神の私たちに対する目的、目標である。神は、きよい水を注ぎ、私たちをすべてのけがれからきよめてくださる。それは、神の御子の十字架によって実現した。イエスの血は、あらゆる罪から私たちをきよめる効力を持つ。

2.新しい神の霊

 背信の民に新しい霊を注ぎ、律法を心に記し、神のおきてに従って歩ませてくださる。それは新しい契約の約束であり、その預言はペンテコステの日に成就した。主イエスを信じた者には、神の定めを守り行なうことのできる力が与えられる。

 神の律法が記されているのはどこであろう。石の板か、心の板か。外か、内か。肉の心とは「血の通った心」。私たちの心はどのような心であろう。

3.神の民となる

 「あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」教会は、新しい神の民の共同体。神の民として前進するとき、神の麗しさ、神の愛は教会の中だけではなく、教会の外にも広がっていく。

 「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」ガラテヤ5:25 (山本牧師)

2019年11月10日(日)

中野雄一郎師(マウントオリーブミニストリーズ代表)

「自我を殺すにはどうしたらいいのか?」 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙2章19-20節

 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19-20)

 この聖句は、多くの人が知っている聖書のみことばである。自分の心、自我について語る箇所。しかし、良く知られているが誤解されている箇所でもある。キリストを信じて歩む中で思う「半分自分に死んで半分生きている」というような誤解である。

 キリストともに死んだというのは、「あの時、キリストともに死んだ。完了した。」ということである。それは、結婚記念日のような、「あの時、結婚した」という意味合いと似ている。「律法に死んだ」「キリストとともに十字架につけられた」という完了形であり、そして、その聖句に続く「キリストが私のうちに生きておられる」という現在形である。

 クリスチャンになっても、変わらない自分に気付く。自我を殺そう殺そうとする。聖書通りに生きるならば、喜びに満ちた人生がある。あなたの自我はすでに「死んでしまった」のである。記念日を変えようと思っても変えられない。聖書通りならば、「キリストを信じたあなたは死んでいる」のだ。「わたしは既に死んだ」という信仰告白をしていくとき、私たちの人生は変わっていく。わたしたちは死んで、そして生きるという順番が大事である。

 息子と大喧嘩をしたときに、怒り心頭のまま自分の部屋に入り、神のことばを思いめぐらした。「自分はすでに死んだのだ。」ということに気付き、自分を捨てて息子に謝りに行った。もし怒り返したならばどうなっていたであろう。「わたしは死んだ」という神のことばに従ったときに、キリストとともに生きることができたのである。

 私たちが聖書通りに生きる時、キリストと歩む喜びを持つことができるのだ。(文責:山本牧師)

2019年11月3日(日)

「信じること、行なうこと」 聖書箇所:ヤコブの手紙2章14節-26節

1.ヤコブについて

 「神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。」(ヤコブ1:1)

 「しもべ」とは「デューロス」といい「奴隷」を示すことば。「あいさつ」は「喜び」とも訳せる。イエス・キリストの十字架はヤコブの人生を大逆転させた。彼がキリストのしもべ、奴隷であると告白するにまでなっていることに目を留めよう。

 イエス・キリストは、お金ではなく「いのち」を投げ出して私たちを買い取った。彼はその喜びに満ちているのだ。

2.信仰と行ない

 ヤコブはイエス・キリストと共に暮らした。その彼が、行いの伴わない信仰は死んだものだと言う。イエスの生涯は、信仰と行いが両輪のように進んでいったことが分かる。

 「律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」というのが聖書の大原則(ローマ10:9-10)。救いは神の恵み。しかし、信仰は行ないによって証明される。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えて下さる。

 サタンは、神がお一人だと信じて身震いし、私たちの信仰が金やダイヤモンドではなく石でも十分だという。信仰生活は、人生の中で神のことばに従ってイサクを捧げ、葦の海を信仰を持って歩む生活である。

3.信仰の具現化

 信仰を持ったならば、その信仰が具現化される。みことばを、ただ聞くだけの者であってはならない。

 「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)。

 私たちの魅力的な振る舞いこそが、キリストの最高の広告塔である。主の勝利が人生に現わされるように。信仰の行いの中に神の栄光が現わされるように!(山本牧師)

2019年10月27日(日)

「成熟を目指して」 聖書箇所:ヘブル人への手紙5章11節-6章3節

 この手紙を受け取った人々は、ユダヤ教から改心した人たちで、未だに聖書理解が未熟であった。年数的にはかなり経って、教師になっていなければならないほどの人たちであったが・・・。

 彼らは、信仰によって救われるという恵みをなかなか受け取れず、律法の行いによって救われるという古い教えから抜けきることができないでいた。

1.霊的な未熟さについて

 三つの欠如を知ることができる。

 「霊的感受性」の欠如。感覚が鈍くなっているということ。かつてはよく理解できたが、既にその理解力は無くなってしまった状態。霊的な耳というのは、常に聞き続けなければ鈍感になっていく。

 「霊的成長」の欠如と「霊的識別力」の欠如。神からのものか他からのものか識別できない状態。聖書を学べば識別力は養われる。聖書を読むことなしに、神のみことば無しに成長はあり得ない。

 ローマ10:17「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」

 聖書は神の息吹が吹き込まれている。

2.初歩の教え=基礎的なこと

 行いによって救われる、ということからの回心。救いは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって与えられる神の恵みである。救い手を置く儀式(聖霊の賜物を授けるため)。

 初代教会は、救われた時に手を置いて聖霊の賜物が豊かに与えられるように祈った。

3.成熟した信仰者

 私たちは、イエス・キリストにあって成熟した歩みへと導かれている。神は私たちに対して真剣である。私たちはどれだけ神に対し真剣であるだろうか。成熟を目指して私たちは前進しようではないか。(山本牧師)

2019年10月20日(日)

「あなたの将来には望みがある」 聖書箇所:エレミヤ書31章17節

 「あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――」将来に対して祝福の思いを持つことは大事である。エレミヤの時代は辛く、悲しみの歴史であった。そのような時、エレミヤが神のことばとして「あなたの将来には望みがある」と言っている。

1.神の選び

 「・・・彼らはわたしの民となる(エレミヤ31:1)」。神がイスラエルの民を選んだ。同じく、神が私たちを選ばれたので、私たちは望みを持つことができる。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15:16)」。

 神は目的をもって私たちを選んだ。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した(エレミヤ31:3)」。神が愛して下さっているから希望がある。神の愛から私たちは引き離されない(ローマ8:38-39)。

 愛することは、その人のことを大切に考えること。私たちは神から大切だと思われている。頭で知ったとしても心で理解するのに時間がかかる。イスラエルの民も同じであった。文句を言い続けたイスラエルの民を神は導かれた。

 なぜか。それは神によって贖われたから。買い戻され、救われたから。神は私たちを責任をもって導かれる。贖いとは、何をしたかや能力ではなく、私たちと神との「関係」で評価される。

 何をしたかではなく何者であるかだ。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました(Ⅱコリント15:17)」。

 私たちは過去の残像を将来に当てはめてしまう。自分の経験値、物差しで測ってしまう。信仰によって将来を選ぶことが大事である。

2.自分を励ます

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。・・・主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、・・・(詩篇103:1-5)」。

 なぜ、わがたましいに「ほめたたえよ」というのか。それは放っておくとほめたたえなくなるから。「何一つ忘れるな」という。なぜか。それはすぐに忘れるから。ダビデのように自分で自分を励まそう。

 「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある。」と神は言われる。(山本牧師)

2019年10月13日(日)

「熟練した者となる」 聖書箇所:テモテへの手紙第二2章1~19節

 私たちの周りには多くの情報があるが、その中で良いものを選択しなければならない。聖書は、しっかり見分ける人、熟練した人になることが大切だ、と語っている。

1.神の恵みによって

 「・・・キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい(Ⅱテモテ2:1)」

 「キリスト・イエスにある」とは「結びつく」という意味。「イエス・キリストを信じて、あなたはイエス・キリストと結びついたのですよ。だから、神の恵みによって強くなりなさい」と勧めている。

 当時、間違った教えとして律法主義が教会の中に入ってきた。これは、信じることによって義とされるという新約の恵みの教えではなく、行いによって義とされるということ。パウロは「素晴らしい神の恵みを思い出してほしい」、その「神の恵みによって強くなりなさい」と言う。

 今日、多くのクリスチャンが律法主義の中にいる。神は聖書を通して私たちにも「恵みによって強くなりなさい」と語っておられる。

2.信仰のスピリット

 三種類の人、兵士、競技者、農夫の姿で例えている。

ⅰ)兵士 ローマの軍隊は世界最強であった。皇帝への素晴らしい忠誠心と命を捧げて戦う姿勢。パウロは「イエス・キリストの兵士」として忠誠心と献身をもって歩むようにと勧めた。

ⅱ)競技者として 栄冠を目指してあきらめずに歩むこと。クリスチャンはアスリートである。

ⅲ)農夫 農夫のスピリット。豊かな収穫のために、夏に畑に出て汗を流す忍耐の時がある。神の働きにも忍耐が必要。

 三種類の人に一つの共通点がある。それは、最後に「喜び」があるということ。

3.熟練した者

 熟練した者とは「真理のみことばをまっすぐ解き明かす人、まっすぐ受け取る人」である。イエス・キリストのことばを、割り引いたり、付け足したりせず、そのままを伝えること。むだ話を避ける。

 ヒメナオとピレトは、復活がすでに起こったと言って真理から外れてしまった。自分を神に捧げる様に努め励む。礼拝とは日曜日だけではなく、私たちの生活そのものが神様への礼拝とすべきである。(山本牧師)

2019年10月6日(日)

「わたしの「飾り」 聖書箇所:テモテへの手紙第一2章1~15節

福音が世の人々にとって魅力的なものとなるためには、それを信じている私たちの生き方が鍵となる。」

1.パウロの勧め「祈り」

 パウロは教会の使命として、高い地位の人にも、低い地位の人にもすべての人に対して祈るように勧めている。政治家や皇室、経済界、社会のいろいろな立場の人のために祈ることは重要である。神は、私たちの思いをはるかに超えて事を成されるから。

 教会から祈りを取ったら何も起こらない。弟子たちが祈っていた時、聖霊が下り、教会が誕生した。さらに、毎日交わり祈っていると救われる人が与えられた。祈りには力がある。

 サタンの恐れているものは何か。それは私たちの祈りである。サタンは私たちを祈りの場から遠ざけて祈らせないようにする。祈りの重要性をもう一度、心に留める必要がある。

 すべての人が救われるようになるのが神のみこころである。キリストの十字架による救いは全ての人のためだが、その招きに応じるのは、その人次第。

 男性には、きよい手を上げて祈ることを勧めている。きよい手とは、神様に向けられた、心からの祈りの手を上げて、という意味。祈るということは、そこにキリストがいることを認め、キリストが働かれるということを期待し、キリストを受け入れているということ。

2.女性への勧めと創造の秩序の尊重

 当時のエペソの教会では、内面をおろそかにして、身なりばかりを気にする人たちがいたようだ。女性差別をしているわけではない。神の最大の関心事はどこにあるだろうか。それは、私たちの内側がどこに向けられているかということ。神を敬い、神に従って歩むこと。私たちの信仰の中心、根幹は何によって支えられているだろうか。

 神は初めに男を造り、その助け手として女を、男からお造りになった。女が男をもとにして造られたように、男も女によって生まれる。神は子を産むという機能を女性にお与えになった。人としてのキリスト・イエスは、女から生まれるという誕生を通して世に来られた。創造の秩序を覚えながら、神を信じて歩む生き方が福音の証しとなる。

 あなたの飾りは何であろうか。(山本牧師)

2019年9月29日(日)

「心の羅針盤」 聖書箇所:イザヤ書37章15~21節

 私たちの心の羅針盤が神に向くべきであることを教えられる箇所である。アッシリヤの王セナケリブは、エルサレムを攻撃するためにラブ・シャケ将軍を派遣し、軍隊をさし向けた。将軍はユダの民に信仰の揺さぶりをかけた。その時、ヒゼキヤ王は神の前に出て祈った。

1.罠

 罠は、その存在を知ったら罠とはならない。私たちは神とともに生きると言いながら罠にかかる。罠がどのような仕組みなのか、私たちの中に罠にかかりやすい性質があることを知るべき。

ⅰ)脅し サタンは私たちに脅しをかけてくる。手をかえ品をかえ、私たちを神から離れさせようとする。ラブ・シャケ将軍がヒゼキヤに揺さぶりをかけたように。多くのクリスチャンは世の中の力に恐怖心を抱き惑わされる。信じるべきは、キリストの十字架の力、神の力である。

ⅱ)不信仰への誘い サタンは、神に対する不信仰の思いを与える(イザヤ36:13~)。「神様なんか信じてもだめだぞ」と。私たちを神から離れさせるのが彼の目的である。

ⅲ)見せかけの保証 サタンは、世の中の保証をちらつかせる(イザヤ36:16~)。サタンは神を恐れている。クリスチャンが神に近づき、神に従っていくことを嫌う。私たちは、罠にかからないために罠を知る必要がある。罠によって、みことばや祈り、そして神から離れてはならない。かえって、みことば、祈り、聖霊によって、罠を知らなければならない。

2.沈黙による勝利

 ラブ・シャケに対して民たちは沈黙した。ヒゼキヤが答えてはならないと命じていたからである。私たちが惑わされる時は、「ノーコメント」か「ノー」なのである。

3.祈りによる勝利

 彼の心の羅針盤の方向は神であった。彼の祈りの中心は、「あなただけが神」と、神を神と信じていたこと。その結果、主の御業がなされた(イザヤ37:36-37)

 磁石が引き寄せられる方向に向くように、私たちの信仰の磁石は神に向かっているだろうか。救いから遠ざける声、信仰から遠ざける思いに惑わされていないだろうか。

 神は私たちを愛され救ってくださる。私たちは弱さの内に完全に働く神の力によって生きる。「私は神の子どもだ!」と告白し、生きようではないか。(山本牧師)

2019年9月22日(日)

ICA(International Christian Assembly)香港 グレース師

「熱心に求める者に報いて下さる神」 聖書箇所:ヘブル人への手紙11章6節

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

 この聖句は、私たちが「神がおられるのだ」と信じて神に求める時、神ご自身が喜んで下さっているということを伝えている箇所である。神を求めるということは、私たちが神に対して高い期待を持ち、私たちの必要が満たされることを疑わないことである。

 マルコ11:22-24 で、イエスは「神の信仰を持ちなさい」と言われた。祈りの中で祈りの答えを受け取ったと信じる時、その祈りは私たちのものになる。  

 マルコ5章の、長い間、血の問題がある女性の話で、イエスの病に対する権威への彼女の信仰が、イエスの衣服に触れるように彼女を押し進めた。これは、モーセの律法(レビ記15章)に反していたが、彼女の信仰の行動によって、イエスの力が彼女を癒すことになる。

 使徒16章のパウロとシラスの牢獄の話では、刑務所に入る前、パウロはマケドニアに行き福音を宣べ伝えるように聖霊に導かれている確信が与えられていた。しかし、占い師の若い女性に出会い、聖霊の力で彼女から悪霊を追い出したことで、彼女の主人が占いによって儲けることができず、パウロたちが人々を混乱させていると訴えられ刑務所に入れられた。

 このような状況では、落胆、恐怖、ビジョンに対する疑いの思いが心を支配してしまう。だが、パウロとシラスが牢獄で神に賛美をしている時、地震が起こって牢獄の扉が開き、鎖が外れた。彼らは勇気を出し、祈り、歌うことによって主を求めたのだ。神の業によって地震が起こり、結果的に看守と彼の家族は救われたのである。敵による害が、主によって好転したのである。

 これらのことから、熱心に神を求めるならば、神の存在が現実的に力強く表れて報われたことがわかる。長血の女性は癒され、パウロとシラス解放され、看守と彼の家族が救われた。

 私たちは、神に対して高い期待をもって礼拝しようではないか。熱心さを失ってはならない。神を賛美しようではないか。(文責:山本牧師)

2019年9月15日(日)

「神の国の価値観」 聖書箇所:テサロニケ人への手紙第一4章1~12節

 人にはそれぞれの価値観がある。私たちが手に入れるべきものは、神の国の価値観である。「神が何を願われているのか」を知り、そのように歩んでいくこと。

1.クリスチャンライフの基準

 パウロは、「イエス・キリストは再び来られるのだから、その時、神の御前で、聖く、責められるところがないように、しっかりと備えておくように」と言っている。

 「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように、また、事実いまあなたがたが歩んでいるように、ますますそのように歩んでください(Ⅰテサロニケ4:1-2)」。

 「歩む」とはクリスチャンライフである。信仰生活は、頭で学ぶだけのものではない。実践である。学んだことを実際の生活に適用し、神に従うことを通して実践する。そのクリスチャンライフのポイントは「どのようにして神を喜ばすことができるか」ということ。

2. 神のみこころはきよくなること

 テサロニケ教会は、誕生して間もなかったが模範的な教会であった。熱心に兄弟愛によって施しをし、ささげた教会であった。パウロは、神のみこころとして「あなたがたが聖くなること、キリストの似姿に変えられていくこと」を勧めている。

  三つの勧め

①不品行を避けること(3-8節)

 特に異邦人クリスチャンに対して。私たちのからだはキリストの代価を払って買い取られた聖霊の宮である。不品行により自分のからだを汚し、聖霊を悲しませてはいけない。

②兄弟愛の実践(9-10節)

 神によって生まれた者は、同じお方によって生まれた者を愛する。彼らはマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行していた。

③落ち着いた生活(11-12節)

 自分の仕事に身を入れ、外部の人々の目から見ても品位を保つことができるように生活すること。当時、なすべき義務を放棄して、締まりのない歩み方をしていた人たちがいた。

 キリストが再臨されるまでの私たちの準備は、日々、キリストと同じイメージに姿を変えられて行くことである。(山本牧師)

2019年9月8日(日)

「ことばの産物」 聖書箇所:箴言15章1~18節

 私たちは日々、聖霊の助けによって、人の益のためにことばを使うべきである。

1.甘い水と苦い水

 「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。・・・泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。(ヤコブ3:9-11)」

 私たちは、ことばをもって神をほめたたえ、また同じ口から出ることばをで人をのろう。同じ穴から、甘い水と苦い水をわき上がらせてはいないだろうか。

2.ことばの産物

 「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす(箴言12:18)」「穏やかな舌はいのちの木(箴言15:4)」。

 ユダヤのタルムード(口伝律法)に、「ゴシップ(中傷)」は必ず三人の人を殺す」とある。ことばには力がある。時に人を傷つけるが、力、励まし、勇気を与え、人を癒し、徳を高める。

 「神のことば」は私たちの霊を生かす。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ4:4)」。

 ことばは人間関係を「裂く」。「陰口をたたく者は親しい友を離れさせる(箴言16:28)」。

 ことばは人の心を「満たす」。「人はその口の実によって良いものに満ち足りる(箴言12:14)」。

 良いことばは自分や相手の内側を満足させる。しかし、悪いことばも同じである。

 ことばは心の内を暴く。「心に満ちていることを口が話すのです(マタイ12:34)」。

 ことばは「広がっていく」。「舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。(ヤコブ3:5-6)」

3.神に求めよう

 私たちは知恵のことばを自分で湧き上がらせることはできない。真の知恵は神から与えられる。「上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり・・・(ヤコブ3:14)」。

 「正しい者のくちびるは多くの人を養い・・(箴言10:21)。」

「養う」とは、羊飼いが羊を「飼う」こと。主イエスは「良い羊飼い」。主は、魂に栄養を与え、休息をもたらし、生き返らせてくださる。

 イエス・キリストの福音のことばが、私たちに祝福を与えて下さったように、私たちのことばを通して人々の祝福となるよう神に知恵のことばを求めよう。(山本牧師)

2019年9月1日(日)

「私のリーダー ~御霊に導かれて~」 聖書箇所:ガラテヤ人への手紙5章13~26節

 聖書には「私たちは自由を与えられるめに召された。」とある。しかし、その自由の特権を用いて、放縦に、勝手気ままに生きればよいということではない。自由が与えられたことは「自発的に神に従う」ということが要求されている。その選択権は私たちにある。

1.「~の自由と、~への自由」

 自由には二つの側面があると思う。

 一つは「~からの自由」。苦しみ、罪などからイエス・キリストによって自由にされた、ということ。

 もう一つは「~への自由」。自由にされた自分が、さらに、これからの将来のことを選ぶ自由である。パウロは、その自由を、肉の働く機会(今までのような罪の中の歩み)にではなく、愛をもって互いに仕え合いなさい。と勧めている。

2.愛をもって互いに仕え

 律法の精神に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とある。隣人を愛するということは、口で言うほど簡単ではない。愛とは、好きになれない相手に対しても自発的に善を図る行為であり、精神的な犠牲を伴うこと、ではないか。

3.私の日々のリーダー、御霊によって

 クリスチャンの心の中には、生来の肉的な願いがあり、また、御霊によって与えられるキリストの思いもある。つまり、二つの相反する法則が働いている。

 肉の欲望に身を委ねれば、その結果は、敵意、争い、憤り、ねたみ・・・などである。反対に、御霊の願いに身を従わせれば、私たちの中に、愛、喜び、平安・・・、というキリストの品性の実が結ばれていく。と聖書は約束している。「肉の行ない」と「御霊の実」。自由へと召された私たちは、それらを選ぶ自由が与えられている。

4.列を作って(25-26節)

 互いにいどみ合うことなく、虚栄に走ることのないように、と語られている。つまり、「御霊によって生きる」ことは、自分自身だけのことではなく、他の人とともに生きることも含まれる。御霊の実とは、隣人のため、周囲の人のためにある。聖書のある訳には、「私たちの行ないを聖霊に支配していただいて、列を作って前進しようではありませんか」とある。キリストのからだ、教会に属する者として行列に参加しているのだ。(山本牧師)

2019年8月25日(日)

「東風の中にある人生を歩む時」 聖書箇所:詩篇50篇15~17節

 聖書で東風と言えば最悪の気象条件を言います。日本で東風と言うと、「東風(コチ)吹かば・・・、」と詠まれるように全く逆の気候の頃になり、厳しさはありません。

 聖書の舞台はこうした最悪の条件下で人生と神様との関わりを示唆しています。私たちに襲いかかる苦難時に、「我を呼べ」と神は言われます。

 日本でも苦しい時の神頼みということばがありますが、私たちは全能なる方により頼み、それを通して「あなたは私(神)をあがめる」と言うのです。気象条件が悪いですから、苦しみの中に飢餓などが襲ってきます。ヨセフ、ルツが良い例です。

 祈りは私たちの目の前におられる目に見えない方への信頼を表わすことばで、その行動です。「求め続けよ!」。

 教会はその祈る場所でもあります。しかし教会はキリストの身体であり、そこに集う一人一人はキリストの体の部分部分で教会を形成しています。ですから、教会は一つ心になり、ハーモニーを奏でる場所でもあり、それが世に示す大きな証しです。

 教会は世の光として、そこに集う一人一人が世の光であり、オーケストラのように全く一つの音を奏でるようなキリスト者としての成長を願っていくべきです。

 嵐の中に静けさを、それはキリスト者のみが経験する勝利です。(東長老

2019年8月18日(日)

「神を見る生活」 聖書箇所:ヨブ記29章1~25節

 ヨブ記の主題は、「義人がなぜ苦しまなければならないのか」ということである。

1.順境と逆境の人生

 ヨブは人生の過去を振り返っている。彼には多くの財産があり、神と親しく交わり、いつも神の祝福があった。しかし、たった一日ですべての財産が奪われてしまう。すべての子どもを失い、全身に腫物が出来て苦しみあえいだ。親友からは責められ、人々の笑いの的となった。

 彼は敬虔な神の人であった。しかし、どんなに敬虔な信仰者であっても、人生には試練がある。信仰とは、過去をいたずらに懐かしむことではない。また、神のことを繁栄の時だけでなく、災いの時にも認めなくてはならない。

 ヨブは神の恵みが分からなかった。彼の不幸はここにある。今という時に働かれている神を信じることができないなら、いつまでたっても神の御姿を心に留めることはできない。

2.神の主権

 苦難の究極の原因を考える時、その苦難の背後に全能者なる神の赦しがある。そのことを考える時、私たちの生活でも神の主権があることを忘れてはならない。

 神を信じることは、生活の中で神の主権を認めて受け入れることとも言える。ここで知るべき重要なことは、神の私たちへの思いや計画は、あくまでも「良いこと」である、ということ。

 エレミヤ29:11「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希

望を与えるためのものだ。」

 今の時代では、イエス・キリストの十字架の贖いの業という愛こそが、神の善意である。

3.二倍の祝福

 ヨブの結末から、主が慈愛に富み、あわれみ深い方であることが分かる。神は、ヨブの前の人生よりも、後の半生をさらに祝福された。しかし、ヨブが受けた最大の祝福は、苦難の中で神の主権を認め、無条件で受け入れた時、うわさ程度に知っていた神を身をもって体験したことだ。

 私たちの信仰はどうであろうか。試練のない人生はない。しかし、その試練を通して、神のことを「耳」で聞く段階から、私たちの「目」で神を見る段階へと成長していくのである。(山本牧師

2019年8月11日(日)

「隠れておられる神」 聖書箇所:エステル記2章1~11節

 エステル記から、私たちは外面的な美しさだではなく、内に秘めた美しさ(内面的な美しさ)を知ることができる。

1.エステル記の時代

 紀元前586年(B.C.586)、エルサレムにバビロニア帝国が攻めてきた。「バビロン捕囚」である。この強かったバビロンも、ペルシャによって滅ぼされる。

 この話の舞台はペルシャ王国。王はアハシュエロス。彼は非常に短気で、当時の王妃が命令に従わなかったため、怒ってクビにし、別の王妃を選ぼうとした。

 国中から美しい女性が集められ、王に気に入られた女性が王妃になる。その中にエステルもいた。エステルは謙遜な態度で好感を得ていく。ついにエステルが王妃に選ばれる。

2.エステル記のメッセージ

 奴隷の子でありモルデカイの養女でもあったエステルが、ペルシャ王国の王妃になる。エステル記には信仰のストーリーがある。この書物の主人公は、表舞台には一度も出てこないお方、「神」である。背後に力強く働かれている神の姿がある。

3.隠れておられる神

 神は、しばしば神の姿を私たちに隠されるときがある。「イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。」(イザヤ45:15)、「隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・・」(マタイ6:6)。

 隠れたところにおられるが、私たちを導き、愛して下さっている神を、私たちは信仰の目をもって見上げ歩んでいこう。エステルも、隠れておられる神との交わりを持ち、神の声に耳を傾けていたのである。

 私たちの人生は、神のご計画の中にしっかりと記されている。私たちからは神が見えない時があっても、神の側からは私たちがしっかりと見られている。信頼と平安をもって歩んでいこう。(山本牧師

2019年8月4日(日)

「人生を美しく生きる」 聖書箇所:歴代誌第二26章1~5節

 歴代誌に登場する6人の王(アサ、ヨシャパテ、ヨアシュ、ウジヤ、ヒゼキヤ、ヨシヤ)の姿から。

1.六人の王たちと信仰の歩み

 ⅰ.ウジヤ王(26章) 彼の失敗は、祭司の役割を果たそうとしたこと。傲慢が彼を堕落させた。「人は傲慢になると、自分に与えられていないこと、委ねられていない権威を行いたくなる」。

 ⅱ.アサ王(14~16章) アサ王の初めは非常に良かったが、彼の心は次第に神から離れ、悔い改めなかった。「初めが良くても、終わりが良いとは限らない」。

 ⅲ.ヨシャパテ王(17~20章) 政略結婚で北王国と和平を求めた結果、偶像崇拝がもたらされた。富のために同盟を結んだ。信仰の姿勢を貫かず妥協した。しかし、その後の戦いで主に信頼し礼拝をささげる。「礼拝は私たちがすべきこと、私たちの最も偉大な武器である」。

 ⅳ.ヨアシュ(23~24章) 祭司エホヤダのおかげで多くの改革を行った。しかし、エホヤダが亡くなると世俗的助言に耳を傾けた。また、エホヤダの子ゼカリヤを殺してしまう。「人の内側に神への愛、信仰がなければ、助けがなくなった時に堕落してしまう。」

 ⅴ.ヒゼキヤ王(29~32章) 王たちの中で最も霊的な人物と言われる。神殿を修復し、真の礼拝を回復した。北イスラエルとともに過ぎ越しの祭りを行うことを計画した。しかし、敵国から攻撃を受ける。「神は、神に忠実な人をさらに試し、信仰の高嶺に導かれる。」

 ⅵ.ヨシヤ王(34~35章) 偶像を取り除き、改革を行った。彼の失敗は、自分に関係のない戦いに関わったこと。「自信過剰になると関係のないことに首を突っ込みたくなる。」

2.内面の改革

 真の意味での信仰の改革、霊的再生は、内面の変化である。私たちの内におられる御霊を認め、御霊とともに生きる時、私たちは内側から変えられていく(Ⅱコリント3:16-18)。

3.美しく生きる

 王たちの姿から、いかに美しく人生を生き、人生を終えるかを教えられる。人生には年齢によって違う美しさがある。私たちのゴールはどこにあるだろう。美しく年を重ね美しく地上の生涯を終えることではないか。信仰の初めから神の国に至るまで、美しい人生を歩ませていただこう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(山本牧師

2019年7月28日(日)

「心に留めること」 聖書箇所:歴代誌第一28章1~10節

1.それぞれの使命

 宝物倉をつかさどった人(27:25)、畑仕事をする人(27:26)、ぶどう畑やオリーブの木、いちじく桑の木の世話をした人、牛、らくだ、羊の群れを担当した人たちがいた。

 私たちそれぞれには賜物があり奉仕がある。もし、皆が畑仕事ばかりしていたら、ぶどう畑はどうなるのであろう。もし、皆が牛しか世話しなかったら、羊はどうなるのであろう。それぞれが主に仕えていく時、良いハーモニーが生まれてくる。

2.心に留めること

 ダビデは、民に対し「主の命令を守り、求めよ」(Ⅰ歴代28:8)と言った。それは、良い地を所有し、子孫に引き継がれるためである。そして、ソロモンには5つのことを言っている(Ⅰ歴代28:9-10)。

 「1.父の神を知る。2.神に仕える。3.神を求める。4.選ばれた。5.実行する」。

 ダビデの関心事は、神に対する信仰の持ち方であった。神にとって、私たちの心、たましいが、イエス・キリストの十字架によって神に向けられているかが関心事である。

 神との相互関係を知ることは大切である。「求めるなら現わされる。離れるなら退けられる」。相互関係があるということは「信頼」「向き合う関係」があるということ。やがてソロモンが神と「向き合う関係」をしなくなり、国が分裂し、滅ぼされていく。

3.直ぐな心

 ダビデは聖なる宮のために宝を進んでささげた(Ⅰ歴代29:1-5)。イスラエルの長たちも自ら進んでささげ喜んだ。ダビデは言った。「私たちは、御手から出たものをささげたにすぎませ

ん。・・あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。」(Ⅰ歴代29:14-17)

 義務的な仕え方は祝福されない。大切なのは「直ぐな心」である。私たちはイエス・キリストによって救われた。神の子どもとして喜んでいい。救われたんだとまっすぐな心で喜んでいい。直ぐな心で神と歩もうではないか。(山本牧師

2019年7月21日(日)

「キリストにあって築き上げられる」 聖書箇所:コリント人への手紙第二12章11~21節

 パウロがこのコリント人への手紙を書いたのは、コリントの教会に問題があり、聖書の教えを間違って教える偽教師が入り込んだためであった。彼は、父親のような心をもって彼らを諭し、戒め、励ましている。

1.パウロの自己弁護

 私たちが自己弁護をするときは、自分の立場を守りたい、自分のメンツを守りたい、という思いが往々にしてある。

 パウロの自己弁護は何のためか。それはキリストの福音のためである。パウロがキリストの使徒であることが否定されるならば、キリストの福音も否定されてしまう。パウロはそのことを危惧したのだ。日々、私たちが自己弁護するならば、それは何のためであろうか。

2.パウロの自己犠牲

 パウロはコリントの教会の人々に、喜んで犠牲を払うことを語っている。パウロがコリント教会の人々に求めたことは「あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身(Ⅱコリント12:14)」であった。

 偽教師たちが求めたのは、コリント教会の人々の財産であったが、パウロが求めたもの、興味があったものは、コリント教会の人々の心であったということ。偽教師たちは、人々を利用し、奪うことだけを考えたが、パウロは人々を愛し、与えることを考えた。

3.築き上げられること

 パウロが願ったことは、コリント教会の人々が築き上げられることであった。彼らの中には「争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動」など多くの問題があった。パウロは「あなたがたは、その罪を悔い改め、そこから離れなさい」と言っている。

 「築き上げられる」とは、「徳を高める」「信仰において成長するため」とも訳される。私たちは、何が大切かを聖書を通して知りながら、良いこと、神の思いを選択していこう。一つの正しい選択が、私たちの徳を高め、成長させ、人生に祝福をもたらすことになるのだから。(山本牧師

2019年7月14日(日)

「キリストのかおり」 聖書箇所:コリント人への手紙第二2章12~17節

 パウロは私たちに大切なことを教えている。それは、私たちがキリストとともに歩み、キリストと時を過ごすならば、キリストのかおりを放つようになるということ。

1.神は私たちを導いて下さる。

 パウロは非常に気にかけていることがあった。それはコリントの教会のことであった。彼の心の中は、コリント教会への愛でいっぱいであった。その中でパウロは「神はいつでも、私たちを導いてくださる。最善をなして下さる」という確信があった。とすれば、私たちがすることは、その神を見上げて、「素直」に従っていくことである。

2.私たちは勝利の行列に加えられた

 神が勝利の行列に加えて下さっているという確信がパウロにはあった。勝つか負けるかの戦いではない。孤独と戦い、試練の中に歩んでいるようであっても、すでに勝利した戦いの凱旋行列に加わって、私たちは歩いているのだ。勝利者として、イエスとともに一緒にいるのである。これもパウロの確信であった。

3.神は自分を用いて下さる

 勝利した兵士にとっては、凱旋行列のにおいは勝利のかおり、誇りと栄誉のかおりである。しかし、同じ場所にいる捕虜にとっては死と敗北のにおいである。

 「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのか

おりなのです。ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。」(15-16節)

 キリストの福音に感動するなら、その人は天国への凱旋行列に繋がっている。そしてその人からはイエスのかおりが放たれている。(山本牧師

2019年7月7日(日)

~牧師室から~

 あるたとえ話である。

 ある町に一人の人が引っ越してきた。その引っ越してきた人が、町の一人の老人のところに行って聞いた。「この町の人々はどんな人たちですか。」すると老人は逆に聞き返した。「その前に、今まであなたが住んでいた町の人々はどんな人たちであったか教えてください。」その人は答えた。「とても良い人たちでした。私は本当はその街を離れたくなかったのです。」老人は言った。「安心しなさい。この町の人々もあなたにとってとても良い人々になってくれるでしょう。」

 別の人が引っ越してきて同じように老人に聞いた。「この町の人々はどんな人たちですか。」すると老人は同じように逆に聞き返した。「その前に、今まであなたが住んでいた町の人々はどんな人たちであったか教えてください。」その人は答えた。「とても住みにくい町でした。嫌な人たちばっかりで。」老人は残念そうに言った。「この町もあなたにとっては住みにくい町となることでしょう。」

 人間関係は鏡のようなもの。善意には善意が、悪意には悪意が返ってくる。私たちは相手のことはよく見える。しかし、自分のことはよく見えていない。

 聖書の中に「相手の目の中にある塵を取り除かせてください。」というが、「自分の目の中には梁があるのが分からないのですか。」という話がある。相手の目の中の「塵」ではなく自分の目の中の「梁」に目を止めなさい。ということだ。私たちは、自分の心の姿勢をわきまえて相手に接していくとき、祝福はやまびこの法則のようにあらわされる。

 「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」ルカの福音書6章36-38節(山本牧師

2019年6月30日(日)

「まず、神のことばを」 聖書箇所:列王記第一22章1~9節

 私たちは日々多くの判断をしている。クリスチャンにとって幸いなことは、いつも聞くことができ、委ねることができる神がともに歩んで下さっていることである。

 南ユダのヨシャパテ王が北イスラエルのアハブ王に「まず、主のことばを伺ってみてください」と助言している箇所である。

1.「まず、神のことばを」

 ヨシャパテ王は、南ユダで最も偉大な王のひとり。彼の心の内には「まず、神のみこころを伺わなければならない」という神への思いがあった。

 私たちが何かをする時、「自分を神に合わせる」のではなく、「自分の計画に神を合わせ」ようとはしていないだろうか。また、神のことばを「聞くことを好む人」は多いが、神のことばを「選び取る人」、「従って生きようとする人」は少ない。自分主体ではなく、神主体であるかどうかが大切である。ダビデ王は言った。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」詩篇16:8。

2.ヨシャパテの弱さ

 ヨシャパテ王は偶像崇拝が盛んな北王国との和平を求め、息子ヨラムを北王国アハブ王の娘アタルヤと結婚させたことで、バアル礼拝が南王国にもたらされた。

 彼の弱さは、自分の信仰を妥協させたこと。彼は、アハブ王が預言者ミカヤを獄屋にいれたことに抗議せず、ミカヤのことばを無視してアハブ王と戦場に出かけた。彼には二心があった。

 これは私たちの信仰生活の姿ではないか。心の中には戦いがある。そしてサタンは私たちを攻める。今日、聖霊は私たちを慰め、励まし、力を与えて下さる。私たちは十字架の御業、聖霊の力を過小評価してはならない。

3.何げなく放たれた矢

 アハブ王は身を守るため変装し、ヨシャパテ王は王服を着たまま戦いに出た。ひとりの兵士が何げなく放った弓の矢が、アハブ王の胸当てと草摺の間を射抜いた。

 キリスト誕生時のヘロデ王による初子の大虐殺から守られたイエス、ペンテコステの後、牢獄に入れられた弟子たちが主の使いによって連れ出されたことなど、人間の力、知識、権力は、神に勝つことはできない。

 「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」(詩篇33:10、11) 山本牧師)

2019年6月23日(日)

「偽りのない愛の人々」 聖書箇所:ローマ人への手紙12章9~18節

 この箇所は別名「パウロが語る愛の十戒」と言われる。

1.愛の源

 偽りのない愛を自分で行なうことは非常に難しい。パウロが語る愛は、人間の愛ではなく神の愛。その愛は聖霊を通して私たちに与えられ、愛の人に現在進行形で変えられていく。自分に愛がないと悲観する必要はない。これから変えられる可能性が十分にあるからだ。

 「悪は憎み退け、善には親しみ結び、(口語訳)」。悪に対しては積極的に退け、良いことには積極的、意欲的に結ぶほど近づきなさい、という意味である。そして、神が私たちを変え続けて下さるという意味合いが含まれる。

2.愛の実践

ⅰ)兄弟愛をもって 兄弟愛=「フィラデルフィア」。イエス・キリストを信じることによって、父なる神の子、兄弟姉妹となった。神の家族となり、家族愛をもって集い歩んでいく姿。

ⅱ)「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」 「すすんで互いに尊敬し合いなさい(口語訳)」。相手が自分を尊敬しようがしまいが、自分が先に尊敬すること。互いにすすんで尊敬しあう姿である。

ⅲ)霊に燃えよ 自分の霊が聖霊により燃やされ続けること。自分の頑張りでは続かない。

ⅳ)「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」 「望み」の後に「患難」ということばがある。パウロは、患難があるところには望みがあることを知っていた。「・・・患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているから・・・(ローマ5章)」。患難のない人生はない。しかし、希望のない人生もない。患難の先には必ず希望がある。祈りは、私たちの目を患難から神に向けさせる。祈りは愛の実践である。

ⅴ)「喜ぶ者とともに喜び・・・」 隣人の中におられるイエス・キリストを見るならば、共に喜び、共に悲しみ、高ぶった思いにならず、平和を保つことができる。その人が神に愛されていることを見る時に、神の愛によってその人との距離が近くなる。

 私たちを輝き続けさせてくださるのは神ご自身。私たちは愛を実践していく教会へと導かれていく。地域、社会に対しても。痛みを感じ、喜びを共有し、成長していくのだ。 山本牧師)

2019年6月16日(日)

「神はしあわせを報いて下さる」 聖書箇所:サムエル記第二16章5~14節

 人生を幸せだと思う人もいれば不幸せだと思う人もいる。しかし、不幸せだと考えている人であっても、イエス・キリストと出会い、ともに歩むならば、人生は幸せへと変えられていく。聖書は言っている。「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)。

 ダビデは親友に裏切られた。また、シムイという男が呪って石を投げつけた。私たちの人生にも時々シムイが現われる。思いがけない出来事が訪れる。ダビデは自分の力ではなく、神の恵み、神の愛の中に身を置くことによって自分が守られる術を知っていた。あなたはどこに身を避けるであろうか。

1.「委ねる」ということ。

 ダビデはすべてを神の御手に委ねた。ダビデはシムイを打ち負かすことはせず、かえって主にお任せした。「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」(Ⅱサムエル16:11)。人生の主人が自分であるなら、このようにはできない。人生の主人が神だから、このように言える。

 「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る(箴言16:32-33)」。まさに、これがダビデの信仰であった。自分の気持ちや感情ではなく神を「選んだ」のだ。

2.自分の罪の悔い改めへの対応

 私たちは、他の人のために悔い改めることはできない。自分の罪に対して、しっかり向き合い悔い改めなければならない。「主はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない(詩篇33:22)」。ダビデは「赦し」を深く知った人物であった。「イエス・キリストによって救われている」ことを深く知れば知るほど神に頼るようになる。

 自分と神との関係はどうであろう。

3.最も偉大な方

 私たちの内におられるのは、最も偉大なお方である(Ⅰヨハネ4:4)。私たちの力の源なる方は、私たちがどのような状態であっても必ず勝利へと導いて下さる。「なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ(箴言38:5)」。今日も、私たちには恵みが用意されている。  山本牧師)

2019年6月9日(日)

「ペンテコステの日に」 聖書箇所:使徒の働き2章1~21節

 ペンテコステの日には超自然的な現象が現れた。いつもはあり得ないことが、目に見える形で現れた。神の霊が注がれることは祝福である。しかし、ある人にとっては祝福ではなくつまずきになったり、受け入れがたいものだったりする。あなたにとってはどうであろう。

1.愛なる聖霊の臨在

 聖霊が臨まれる時、超自然的な経験や現象に目を捕らえられがちである。しかし、聖霊が臨まれる時には、神の思い、神の深い愛が臨んでいるのである。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:5)

 ペンテコステはただの現象だけではなく、父なる神の思いが地上に豊かに注がれた時であった。その注ぎは今も私たちに注がれるのである。

2.大勢の人が集まってきた

 この中には聖書に通じたユダヤ人もいれば改宗者もいた。聖霊の働きがなされる時に、渇きを持った人たちが集ってくる。癒しを求める人、困難や苦難の人生を歩んでいる人。それは教会が健全である証拠でもある。そこに神の愛が注がれ、癒しを受け、キリストの愛の中に生かされることを体験していく。

 彼らは最初「驚きあきれて」いたが、その後「驚き怪しんだ」。最後には「驚き惑った」。神がなされることは、最初は「そんなこと」と軽く思うようなことかもしれないが、次第に多くの人々に影響をもたらしていく。

3.証の人生へ

 彼らは聖霊に満たされた。ペテロが証をすると人々は心を刺され、三千人ほどが弟子に加えられた。彼らは交わりをし、パンを裂き、祈り、多くの奇蹟と証がなされた(使徒2:37~)。

 聖霊が注がれるまでは、いわゆるキリストに関する知識人であったとも言えるだろう。しかし、聖霊に満たされた時、彼らはキリストの知識人からキリストの証人へ変えられたのだ。

 この聖霊は私たちにも望まれている。隣人と交わり、キリストを証し、ともに祈り合う道が私たちの前にある。聖霊によって私たちが神のために用いられていくのだ。  山本牧師)

2019年6月2日(日)

「今は役に立つ者」 聖書箇所:ピレモンへの手紙

 この手紙は、パウロ書簡でありますが、個人宛ての手紙です。他の書簡は「福音の真理」についてとか、「教会の問題」について論理的、神学的に指導している手紙です。

 個人宛ての手紙ですから、内容はいとも簡潔に、手短く書かれています。用件のみだけを「深い愛に基づいて」語っています。

 登場人物はピレモン。この人はコロサイに住んでいて、財産家であったから、幾人かの奴隷を使っていました。

 その中のオネシモは主人から何かを盗んで、当時の大都会ローマに逃げてしまいました。しかし、その奴隷が獄中にいたパウロに出会ってクリスチャンになってしまったのです。主人のピレモンもおそらくパウロと出会ってクリスチャンになったのでしょう。そして自分の家を集会所にして神を礼拝していました。当時はこうしたところが多くありました。

 パウロは奴隷であるオネシモを主人の元に送り返すべきかどうか悩んだ末、ルールに従って主人の元に送り返すことにしましたが、送り返せば、奴隷が捕まれば処刑される当時の社会でありましたが、パウロはピレモンの信仰に期待しました。

 一方、オネシモは、今は「役に立つ者」に変えられた信仰にパウロは賭けました。パウロの行動は、愛に基づいた行動によっています。キリスト者の愛は、その社会の持っている囲い(盾)を乗り越えて新しい人間社会をつくります。そうした力が働くのです。(東長老

2019年5月26日(日)

「影響を与える福音」 聖書箇所:使徒の働き19章23~41節

 エペソの町で、神のみことばによって「ただならぬ騒動」が引き起こった。どの時代にも、教会、クリスチャンが問いかけるべき質問がある。それは、社会に対してどのような影響を及ぼしているか、ということだろう。クリスチャンは、世の光、地の塩として神に召しだされた者である。暗闇にイエス・キリストの光を届け、悪に捕らわれているところには塩としての役割を果たす。

1.利益優先という肉の思い

 騒動を引き起こした人物は銀細工人デメテリオ。彼の仕事は、偶像アルテミス神殿や女神の模型を銀で作ること。アルテミスは多産と豊穣の女神としてまつられていた。彼の作った模型が多くの家庭に置かれ、人々はそれを拝んだ。

 しかし、パウロたちが真の神を宣べ伝え、イエス・キリストの福音を信じた人々が多く起こされたため、デメテリオは自分たちの生活が危ぶまれるという危機感を覚えた(使徒19:25-26)。

 私たちの神は、私たちのたましいに触れ、私たちのいのちに関わりを持つお方である。福音宣教は、神のことば、聖霊の力によって、人々の心を真の神に立ち返らせる。今日も神のみことばは私たちという管を通して伝えられ、聖霊によって改革、リバイバルが起こる。

2.2つの出来事

 みことばが宣べ伝えられるところには2つの出来事が起こる。一つは、信じない者は自己保身という動機から神を否定する動き。もう一つは、人々が罪人だと自覚して、神に立ち返り、悔い改めるという霊的な動き。これは、今の時代も変わらない。

3.忘れてはならないこと

 この御業は、彼らがツラノの講堂でみことばを知り、神のことを2年間学んだところから始まった(使徒19:8-11)。神のみことばと聖霊の御業は同時に行われ、この世に影響力を与えていく。

 この奇跡とリバイバルは、熱い情熱をもってみことばに親しむ中で起こった出来事であった。みことばの基礎の上に聖霊が働かれ多くの人たちが福音を受け入れた。

 今日も世界各地で神のみことばが語れられ、聖霊が働かれ、多くの人々が福音を信じている。この教会に集う私たちを通して聖霊が御業をなされるように。 山本牧師)

2019年5月19日(日)

「40日の間 ~聖霊が注がれるまで~」 聖書箇所:使徒の働き1章1~11節

 イエスは私たちの罪のために十字架につけられ、死んで葬られた後、よみがえられた。その後、多くの弟子たちに何度も現れて、神の国のことを語られた。

1.イエスに気付くこと

 マグダラのマリヤにイエスは現れたがマリヤはイエスだと気付かず、エマオに行く途上の弟子たちにもイエスは現れたが、彼らもイエスだと気付かなかった(ヨハネ20章)。

 私たちもイエスがそばにいるのに気付いていないということが絶えずあるのではないか。神の御手が私たちの人生にあるということを、気付いていない時があるのではないか。

2.神の時

 四十日間イエスは弟子たちに現れた。それは「神には定められた時がある」ということ。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(伝道者の書3:1)

 神の御手が私たちとともにある。人生が空っぽに見える時は、神がその空を満たして下さる時である。人生で辛いと思う時は、神の恵みと力を受ける人生が始まっていく時である。

3.四十日間の目的

ⅰ)神の国を語ること イエスは語られた。それは、イエスがかつて弟子たちに語られたことを、彼らがもう一度思い出して信じるためであった。人は聞いても忘れる。聖書のことばはは何度聞いても良い。また、何度も聞かなくてはならない。生活の中で神のみことばとめぐり合ったならば、それはあなたの信仰の時である。

ⅱ)聖書の預言は確かであることを証した イエスは復活の姿で現れることにより、罪に対し、死に対し、サタンに対して勝利したことを証した(Ⅰコリント15:51-57)。その復活のイエスを信じる者は、どんなに嫌なこと、辛いことがあっても敗北感に縛られることは全くない。

ⅲ)ペンテコステへの備え イエスは父の約束を待つように命じられた。この後、弟子たちは五旬節(ペンテコステ)に聖霊に満たされ、イエスの福音を宣べ伝えていく。聖霊によって彼らは神の国を理解し、みことばの力を明らかに知った。彼らの古い性質や価値観が変わり、みことばを体験していった。今も聖霊は私たちを最高の人生へと導かれる。 山本牧師)

2019年5月12日(日)

「真の神に目覚めた人」 聖書箇所:士師記6章25~32節

○ギデオンの父ヨアシュとミデヤン人

 「アビエゼル人ヨアシュ」。アビエゼルはヨセフの長子マナセの子孫。イスラエルの子孫として歩んできたが、当時の時代に負けたようだ(士師記6:10)。

 クリスチャンが注意しなければならないことは、生かされている時代の風潮、考え方、世の中の価値観によって、信仰が影響されてしまうということ。ミデヤン人はアブラハムの子孫。この士師の時代にミデヤン人がヨアシュたちを攻めてきた。言うならば、親戚同士の争いである。

1.神の選び

 神は気の弱いギデオンを選んだ。人間側からすれば急に選ばれたと感じても、神の側からすれば既に選んでおられたということ。Ⅱコリント6:2「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。~」今日という選びは神が既に計画されていた。

2.心の状態

 ギデオンは、敗北感に満ちていた(士師記6:13)。主は自分たちを捨て、ミデヤン人の手に渡された、と断言している。彼は心の中ですでに敗北していた。

 私たちは自分で勝手に勝敗を決めてはいないだろうか。「負けだ」「終わりだ」「無理だ」と決めるならば、神はあなたを変えるのが大変である。神にとって状況を変えることよりも、あなたの心を変えるのが大変である。神はあなたに使命を持って選んでおられる。私たちに力があってもなくても、神の使命を受け取り、神とともに歩んでいくならば、その人は真の勝利者である。

3.信仰の目覚め

 ギデオンは信じようとした(士師記6:25)。心の状態が整いつつあったギデオンに、「その夜」主は語られた。あなたの心が神に向くならば、神は次のことを進めて下さる。

 彼は勇気をもって神のことばに従い偶像のバアルの祭壇を壊した。神のことばに従う時、神は力を与えて下さる(Ⅱテモテ1:7)。信仰の勇気は周囲の人々を革命する。ギデオンの信仰の行いによって、父ヨアシュは父親として目覚め、同時に、真の神に目覚めた(士師記6:31)。この世に流され偶像に仕えることから、真の神に立ち返ることを知った父ヨアシュ。必要なことは、真の神に目覚めて神とともに歩むということである。(山本牧師)

2019年5月5日(日)

「行くべき道を知るために」 聖書箇所:ヨシュア記3章1~13節

 イスラエル人たちはヨルダン川の川岸に着き、三日間留まることになる。当時のヨルダン川の水量は非常に多かった。彼らは神の助けが無くては成就しないことを強く感じたであろう。

 契約の箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、ヨルダン川はせき止められ乾いた地が現れた。契約の箱は川の真ん中で止まり、その間に民たちはヨルダン川を渡った。

1.川を渡る経験・・・みことばを経験する

 イスラエルの人々には信仰の覚醒が必要であった。なぜなら出エジプトを経験していない人たちであったから。

 「主はいつも先立ち、民を最後まで守られるお方である。」ということを知る必要があった(ヨシュア4:22-24)。葦の海(紅海)を渡ったことを言い伝えで聞いていたイスラエルの人たちにとって、これが現実となった。みことばは生きていて、力があることを、生活の中で体験する必要がある。

2.あなたを通して

 ヨルダン川を渡る経験をイスラエルにもたらされた神がともにいるという確信は、後の歩みにどれだけの大きな励まし、勇気、信仰の決心を与えたであろうか。主の働きをする前に、「主がどんなお方であるか」を知っている、ということは大切である。

 神ご自身が戦い、領地を獲得し、イスラエルに与えることもできた。しかし神は人を通して働かれる。神は私たちを通して働きたいと願っている。なぜか。それはあなたを無視できないから。あなたを愛しているからだ。

3.出発せよ

 神は、神の主権によって私たちに約束をお与えになる。だからと言って、待っているだけでいてはならない。神は、私たちが約束に基づき行動を開始するのを待っておられる。信仰によって一歩踏み出すごとに、神は進むべき道を示される。

 天地創造の神はクリエイティブなお方、道が無ければ、道を造られるお方だ。私たちが出発しなければ、神の御業は起こらない。(山本牧師)

2019年4月28日(日)

「神に拠り頼む」 聖書箇所:詩篇551623

 人は極限状態の時に本質が現れるという。詩篇55篇はダビデがまさに極限状態であった時を表している。彼の苦しみは、息子に裏切られ信頼していた部下にも裏切られてしまうものであった。

1.神に心からの叫びを注ぎだし、助けを求めた

 ダビデは、自分の絶望さ、弱い存在であり恐れに満ちた状態であることを正直に神に告白している。聖書が示す大切な真理は「神は私たちの弱さを知られ、その弱さに引き付けられるお方だ」ということ。私たちが自分の弱さを認め、へりくだって神に助けを求める時、神は決してその人を見捨てるお方ではない。

 私たちが真剣に神に近づくとき、神も真剣に私たちに近づかれる(ヤコブ4:8)。神は、あなたの真剣さ、正直さを今日も待っておられる。

2.審判は神がなさること

 自分が手を下すのではなく、神ご自身の御手に委ねた(詩篇55:9)。もし自らの手で裁くとすれば、神の裁きに信頼していないことだ。彼は、心の拠り所を神に置き、全ての主権は神にあることを認めていた。困難から救われるのは自分の経験や知識によってではない。一日中うめいたとしても、神はその声を聞かれるのだと認めていた(詩篇55:16-17)。

3.最善をなされる神を信じる

 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。・・・」(詩篇55:22)。神は、「心配して下さる」お方。「心配してくださる」とは「養う、老後を看取る」という意味がある。主に重荷を委ねるとは、問題の中にあっても、神は必ず最善をなして下さると信じ、神を愛し、礼拝していくこと。神がなされることは、最高、最善である。だから神なのだ。

 この詩篇は、イエス・キリストの生涯の預言でもある。イエスは身近にいた弟子に裏切られ十字架につけられた。信頼していた身近なものに裏切られるという目に見えない傷こそ、最も深い傷であった。それは、私たちの苦しみを理解し、思いやって下さるためであった

 「けれども、私は、あなたに拠り頼みます。」彼の信仰の姿勢が現れている。山本牧師)

2019年4月21日(日)

「私の主、私の神~イエスのよみがえり~」 聖書箇所:ヨハネの福音書202429

1.十二弟子のひとりトマス  トマスは「イエスの手の釘跡を見、指を差し入れ、わきに手を差し入れないと決して信じない」と言った(ヨハネ20:25)。トマスは疑い深く、不信仰の象徴のようだと捉えられる。

 他の聖書箇所では、イエスに迫る危険を考え「主と一緒に死のう」と言い(ヨハネ11章)、イエスが「場所を備えに行く」と言った時(ヨハネ14章)、「どこへ行くのか分からない。その道は分からない」と正直に言った。彼は先を考え理解に努める性格であり自分の気持ちに正直であった。

 トマスにはイエスの復活を信じる思いが全く無かったのだろうか。そんな彼にイエスは現れたのだろうか。神の国、信仰の原則は「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。たたきなさい。そうすれば開かれる。」「神に近づくものには、神が近づいて下さる。」である。

 イエスはトマスに近づき、真理を知りたいが不信仰に陥っているトマスの信仰の泉を引きだした。真実への渇望があるならば、私たちは幸いである。

2.トマスの失敗  「決して信じません」(ヨハネ20:25)とトマスは断言した。人間は行き過ぎ、言いすぎ、調子に乗ってしまう時がある。彼は、自分を「信じない者の側」につけてしまった。イエスはそんな彼に「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われた。

 「信じる」とは、たとえ十分に分からなくても「信じる側に自分を置くこと」ではないだろうか。「信じるようになれること」ではない。完璧な理解が無くても、聖書を全部読んでいなくても、「信じます」と信じる側に身を置くならば、聖霊が「信じた」ことの理由を日々明らかにされる。時々に相応しい恵みと信仰を下さる。

 私たちに必要なことは、今日も信じる側に身を置くこと。「信じる側につく」という勇気である。

3.「私の主。私の神」  これは「あなたこそ唯一の主、唯一の神」ということ。イエスは、トマスの心の深みにある信仰を引き出された。イエスは「見ずに信じる者は幸いです」と言われたが、「見ずに」とは、自分の知識が及ばなくても、心が追い付かなくても、ということ。イエスは私たちの内をご覧になってこう言われる。「見ずに信じる者は幸いです。」山本牧師)

2019年4月14日(日)

「イエスの心」 聖書箇所:ヨハネの福音書8111

 受難週。ヨハネ7:538:11までカッコでくくられている。初代の教会は「姦淫の罪」「不倫の罪」に対して寛大、寛容になってしまうのではないか、と考えたようだ。

 律法学者、パリサイ人が、姦淫の現場、不倫の現場にいた女性を連れてやってきた。それは、イエスを陥れるために彼女を利用したのであった。

1.イエスへの視線

 多くの人々は、女のことを汚らわしく思っていた。そんな彼女を、正しい心をもって罰する思いではなく裁く心で見つめていた。しかし、多くの人々の目が、女を見つめる目から地面に何かを書くイエスのほうに注がれた。

2.沈黙の中で

 しばらくの沈黙をイエスはなされた。私たちは「神よ、お語り下さい。助けて下さい」と祈る中に神の沈黙を経験する。「愛は、いかに沈黙すべきかを知っている」(ある聖書学者のことば)。この沈黙も、イエスの愛の現われである。

 彼女よりも優位に立ち、自分のほうが女より罪がないと思っていた周囲の人々。私たちも時には、同じようなことをしている。周囲の人々は自分の罪を指摘され、その場から去っていった。

3.イエスの心

 聖書は、この女性がなぜそのような罪を犯したのか問うてはいない。イエスの心は、律法学者やパリサイ人たちへ向けられ、そして彼女へと向けられた。正しい審判者、救い主の心で。

 イエスは罪を軽率に扱っているのではない。私たちが知るべきことは、罪を罰することのできるお方、イエスが、この女性の罪をも赦すことのできるお方だということ。この女性のためにも十字架にかかり執り成しをなされたこと。そして「二度と罪を犯すな」と新しい生活を促されるお方であること。

 この女性はこの後、十字架にかかるイエスの出来事を知る。彼女はイエスの姿に、そしてイエスの心に、深く涙したであろう。山本牧師)

2019年4月7日(日)

「いのちを選びなさい。」 聖書箇所:申命記301120

 人生は、選択しなければならない出来事が蔓延している。人生とは、取捨選択の連続である。イエスが言われた「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)も、優先順位をつけることの重要性を教えていることばである。

1.モーセの人生観

 モーセは、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、罪の楽しみを受けるよりも、神の民とともに苦しむことを選んだ(ヘブル11:24-25)。彼が目を離さなかったことは「この世」ではなく「神」である。

 彼の教養や贅沢な生活は、命を懸けて歩むことではなかった。彼が選んだのは、神とともに歩むことであった。彼は荒野の長い生活の中で、まことの生ける神と出会い続け、いのちの源なる方を知っていった。

 私たちの人生観はどのようなものであろうか。

2.選択の自由

 選ぶことは価値があり、選ぶことによって、その人の愛が分かる。神は私たちに自由意思を与え、自ら神に応答することを願われている。

 また、選ぶことは片方を捨てるということ。いのちを選ぶということは、死を捨て去るということ。キリストを選ぶということは、キリスト以外の神を捨て去るということ。

 いのちを選ぶことは、愛することの意思表示であり、同時に、死に決別することの意思表示である。この命令は、難しくなく、かけ離れていない(申命記30:11ローマ10:8)。

3.申命記で語られる福音

 神は、契約を守れなかったイスラエルの民たちに対して、心の割礼を施すと言われる(申命記30:6)。神を愛せない心、不従順な心を、神を愛する心へと変化させて下さる。神は、私たちを探し、追跡し、見つけ出すまであきらめないお方である。神は愛の追跡者である(詩篇23:6)。

 イエス・キリストを信じることは、私たちの中に新しい心が与えられることである。私たちの前に、十字架による救いと永遠の滅び、いのちの歩みと滅びの歩みが置かれている。今日、「あなたはいのちを選びなさい」とのことばに心から応えよう。(山本牧師)

2019年3月31日(日)

「主は私たちの神。主はただひとり。」 聖書箇所:申命記619

 愛はたましいを癒し、世の中を癒す、神から与えられた偉大な薬である。

1.神の動機

 人には愛が必要である。人は、神の愛のうちに、神の愛によって、神を愛し隣人を愛するために創造された。聖書の中で律法を強調しているとともに、最も愛を強調しているのは、申命記とも言われる。どうして律法は人々に与えられたのであろうか。神の全ての動機は人々に対する愛である。

2.「聞きなさい。イスラエル」(シェマー イスラエル)

 申命記6:4は、ユダヤ人ならば誰でも知っていると言われる聖書の箇所。彼らの日々の祈りである。「シェマー」とは「聞きなさい」。

 神は、あの人の神、この人の神、と他人の神ではなく、私たちの神である。そして、神はただおひとりであり、神を愛して生きなさいということ。

)心を尽くして

 神は私たちをどのように見ておられるか。最初に、神が私たちのことを、心を尽くし愛して下さっている。その神の愛に気付き、神の愛を受け取り、歩み始めることが心を尽くして愛する第一歩ではないか。私たちが良い状態であれ悪い状態であれ、神の愛は変わらない。弱く罪に満ちているからこそ、イエス・キリストが十字架にかかる必要があった。

)精神を尽くして

 「神に私たちの精神を委ねて」ということ。信仰とは自分の力を信じて、自分により頼んで生きることではなく、神を信じて全てを明け渡し、委ねて歩むことである。

相手のことを信じなければ、明け渡すことはできない。信じることができるのは、自分を愛して下さっているから。愛は信仰を生み出す。信仰は希望を生み出す(コリント13:13)。愛と信仰と希望は互いに結ばれている。全ては愛から始まっている。

)力を尽くして

 精神的にも肉体的にもエネルギーを使い、疲れ果ててしまうほどに神を愛することだろうか。自分の力、自分の意志では神に完全に従うことはできない。神が私たちに願われる生き方とは、「自分の思い、自分の意思を捨て、神の力によって聖霊に従ってくこと」。

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(山本牧師)

2019年3月24日(日)

「見せかけと真実」 聖書箇所:ルカの福音書2045節~214

1.見せかけの律法学者たち

 「律法学者たちには気をつけなさい。」(ルカ20:46)とイエスは言われた。「彼らは間違った考え、間違った聖書理解をしているから気をつけなさい。」ということ。間違った聖書理解は、間違った行動、間違った歩みを引き起こす(ルカ20:46-47)。

 ある学者は言った。「誠実であるよりも、誠実であるように見えることに価値が置かれてしまう。」律法学者たちは、人の目を気にして、神の目を気にしていない。

2.金持ちと貧しいやもめ

 イエスは、最初、神殿の庭(婦人の庭)のところに座って(マルコ12章)献金箱に投げ入れる人をご覧になっていた。そこには13の献金箱があり、それぞれの献金箱に捧げる目的があったそうだ。献金箱にはラッパのようなものが付いていて、そのラッパに献金を放り込むと音がした。多くの人々が献金をささげ、金持ちは献金箱に大金を投げ入れていた。そこに一人の貧しいやもめがやってきて、レプタ銅貨二つを投げ入れた。レプタ銅貨二枚は約156円になる。

3.事実と真実

 イエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。・・・」(ルカ21:3-4:新改訳2版)。

 事実と真実の違い。事実は、お金持ちがたくさん献金を投げ入れたことと、貧しいやもめがレプタ銅貨二枚を投げ入れたこと。イエスは真実の世界を見ておられた。金持ちはあり余る中からささげた。そこには痛みはない。しかし、貧しいやもめは生活費全部、生きる手立て全部をささげた。そこには痛みがある。「人間の評価は、どれくらいの額を投げ入れたかで価値が決まるが、イエスの評価は、どれくらいの犠牲を払ったかで価値が決まる。」貧しいやもめをそこまでさせたものは何か。生活費ということばは、ギリシャ語で「ビオス」、意味は「いのち」。彼女が生活費をささげたということは、彼女のいのちをささげたことと同じである。

 そこには神への感謝、献身があった。私たちの内には、神への感謝、献身の思いが小さくてもあるだろう。その思いをもって真実を尽くそうではないか。

 イエスは貧しいやもめから小さな信仰の光を見た。神は、このレプタ銅貨二枚をささげた貧しいやもめのように、私たちの信仰を励まし、キリストの似姿へと変えて下さる。(山本牧師)

2019年3月17日(日)

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」 聖書箇所:ルカの福音書53339

 もともとパリサイ派は正しいものであったが、次第に権力の集まりとなり、最初の神への熱心さ、本当のいのちの動きが無くなっていた。

1.花婿と花嫁の関係

 パリサイ人たちは断食をしないイエスの弟子のことでイエスを責めた。それに対しイエスはご自分を花婿として例えて「花婿がいっしょにいるのに、つき添う友だちに断食させることができますか。」と言われた。そこには、食べ物を共有すること以上の喜びがある。

 真の断食とは、見せかけではなく、神との霊的な交わりを重んじ、神を喜ぶもの。大切なことは、イエス・キリストという花婿が花嫁である私たちの中におられるかどうか。

2.新しい着物と古い着物

 当時の新しい布は引く力が強かったようだ。古い着物に継ぎをするとき、新しい着物から布を引き裂き古い着物に充てるようなことはしない。新しいほうは縮み、古いほうは伸びきれずに破れ、結果的に両方とも破れてしまう。古い習慣、規則、形だけのものなどパリサイ人の古い意識(着物)に対し、イエス・キリストという新しいいのちが来られた。

 私たちは「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と言われたキリストにある新しい着物を着て、キリストのいのちに生きるのである。

3.新しいぶどう酒に新しい皮袋

 古く弾力性のない皮袋に新しいぶどう汁を入れるとガスが出て発酵し膨らむが、古い皮袋はそれ以上伸びないため、ぶどう酒が皮袋を裂いてしまう。もしこれが、新しい皮袋ならば、伸縮してその膨張に耐えることができる。

 エス・キリストの福音は、まさにこの新しいぶどう酒のこと。古い考え、しきたり、律法主義とう古い皮袋ではなく、キリストのいのち、恵み、救いという福音には新しい皮袋が必要。私たちは福音、キリストのいのちという新しい着物を着ているか。また、新しいぶどう酒が内にるか。その入れ物は新しい皮袋か。

○ある神学博士の研究内容「教会が衰退するサイクル:三つのM」。

 1.Movement(運動)→2.Machine(機械)→3.Monument(記念碑)というサイクル。

教会ならば、

 1.Missionary Church(宣教師の教会)→2.Machine(運動)の教会を維持するMaintenance  Church(維持、保守の教会)→3.Monument(記念碑)のようなMuseum Church(博物館の教会)。

 教会はキリストのいのちそのもの。そのいのちに生きているか。(山本牧師)

2019年3月10日(日)

「岩を二度打ったモーセ」 聖書箇所:民数記20213

 「民数記」の主題は「神の民の訓練」。その中で分かることは、「人は絶えず不満をこぼす」「過ちを繰り返す」ということ。もう一つは「その様な人々を神は変わることなく導かれる」「人が神に立ち返る時に神は満たして下さる真実な方」ということ。

1.天幕に入ったモーセ

 モーセは、まず天幕に入って主のことばを待った。天幕は神と交わる場所、聖なる場所。人間は、神と交わってこそ聖さを味わうことができる。すると主の栄光が現れた。

 私たちも天幕に行くときに、主の栄光が現れることを知らなければならない。主の栄光によって、慰めを受け、励ましをいただこう。

2.自分の方法ではなく神の方法で

 神のみこころを知ることと、行うことが異なってはならない。私たちが行ってしまう多くの過ちは、神の考えに自分の考えを適用したりプラスアルファをして行動をしてしまうということ。

 父なる神のみこころは「水を飲ませたい心」である。40年間も不平を言う民に対して、神はまだ水を与えるお方である。

3.大きな勘違い

 モーセは「命じられたとおりに」行ってきた。しかし彼は人々に語り始め、杖で岩を二度打つ。何かをするときに必ず一言付け加えたいときはないか。神のみこころを伝える時に、「人を諭したい」という気持ちがまさって付け加えてしまう。

 モーセは「私たちが水を出さなければならないのか」と言った。水は神が与えるもの。大きな過ちである。彼は神にではなく、不平を言う民のことばに心を奪われてしまった。また、過去に岩を打って水を出したように、過去の経験に頼った。自分の考えを付け加えたのだ。

 私たちも神を見ずに人だけを見ると、神の御思いからずれてしまう。私たちは通り管であるにもかかわらず、自分が主人であると勘違いしてしまう。人を癒し、人を導くことができるのは、神によって、ことばによって、聖霊によってである。

 神の完全な計画に対し、自分の考えを付け加えて無駄にしてはならない。キリストの恵みは完全であり、弱い私たちを今日も生かしてくださるのだ。(山本牧師)

2019年3月3日(日)

「神の国に入ること」 聖書箇所:マルコの福音書101731

 この話は他の話と大きく異なるところがある。多くの話はイエスと出会うとハッピーエンドであるが、この話はハッピーエンドでは終わらなかった。

1.一つだけ欠けたもの

 ひとりの男がイエスのもとに来た。彼は十戒を忠実に守り、恥じることのない生活をしていた。しかし「永遠のいのちを受けるための道」について確信がなかった。

 イエスはいつくしみをもって「あなたには、欠けたことが一つある。持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えよ。そうすれば、天に宝を積むことになる。」と言われた。彼は、悲しんで立ち去った。私たちは財産を子どものため、老後のため、生活のために守る。そう思うと、この話はどのように考えたらよいのであろう。

 「天に宝を積む」とは何か。イエスは人の心を不自由にするもの、信仰の妨げになるもの、常に私たちの心を支配するものが、この世の「宝」だと言われた。人は二人の主人に同時に仕えることはできない。私たちにとって、富に限らず「宝」となりやすいものが多くある。

2.らくだが針の穴を通る

 「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」衝撃的なことばである。イエスのために自分に関わる全てを捨てることは、らくだが針の穴を通るよりももっと難しいことである。しかし「どんなことでも、神にはできるのです。」とイエスは言われた。

3.神の恵み

 永遠のいのちは、自分の力で100点満点になって獲得するものではない。神の国に入ることは、生活の基盤をこの世のものではなく神に置くことであり、神の支配を受け入れること。自分で人生をひっくり返すのではなく、神の恵みによってひっくり返してもらうことを受け入れることだ。そうでないと、この男のように立ち去らなければならない。

 この話の直前には、イエスに受け入れられた子どもの話がある。この男に求められたのは、子どもと同じところに立つことであった。自分で背伸びをするのではなく、神の恵みの力に明け渡す。それが、イエスに出会う道、神の国に入る道である。どれほどクリスチャンとして完全に近いたとしても、すべてはただ恵みによるのである。(山本牧師)

2019年2月24日(日)

「キリストの血による永遠の贖い」 聖書箇所:レビ記17814

 レビ記を貫く主題は神の「聖」である。レビ記が難しいと言われる理由は「祭司の業務マニュアル」だからである。

1.ささげものといのちと血

 ささげものの血は祭壇の周囲などに注がれた(17章)。5つのささげものは①全焼のいけにえ、②穀物のささげ物、③和解のいけにえ、④罪のためのいけにえ、⑤罪過のためのいけにえ。

 神は、ささげ物を見、その血を見、そこに現わされた人の信仰をご覧になるお方だ。

2.ささげものとイエスの対比

・全焼のいけにえ=1.献身:天の栄光を捨てて世に献身された。

・穀物のささげもの=2.奉仕:穀物は粉々に砕かれた。身を粉にして捧げたイエス。

・和解のいけにえ=3.交わり:「わたしの血を飲み肉を食べなさい」と聖餐を示された。イエスとの交わり。

・罪のためのいけにえ=4.赦し:行ないの罪だけではなく、原罪(罪そのもの)の赦し。

・罪過のためのいけにえ=5.関係の回復:互いの傷、葛藤、問題を償い満足を与えた。

 イエスが自己犠牲によって人間の罰を代わりに受けるという、神の完全な計画である。私たちがイエスと出会う時には、上記の順の反対の体験をしながら成長していく。このささげものを体験していくことが、成熟さとなっていく。(ヘブル9:14

3.十字架の血潮といのち

 神は、人のいのちを贖うことの方法や手段として「血」を選ばれた。血を流すことは「いのち」を犠牲にすることである。

 現代の私たちは同じように動物のいけにえをささげるようなことをする必要はない。なぜならイエス・キリストが十字架で血潮を流され、いのちを差し出され、信じる者に永遠のいのちを与えられたから。旧約のいけにえは一時的に罪を覆うだけだが、キリストは、私たちの罪のために一つの完全ないけにえをささげられた。神が与えて下さった、新しい生けるいのちの道をともに歩もうではないか(ヘブル10:1-20)。山本牧師)

2019年2月17日(日)

「人間の堕落と信仰によるとりなし」 聖書箇所:出エジプト記323035

 モーセはシナイ山で幕屋に関する規定を神からいただいた。彼は四十日四十夜、山にいた。

1.うなじのこわい民

 モーセがいない間に、民の心はモーセから離れ神から離れていった。彼らは神の時を待つことができなかった。神によって安心を得ようとせず、自分の手で安心を勝ち取ろうとした。人間的に神の臨在を作り自分たちを守り導く神を作り出そうとした。

 今の時代も同じではないか。自力で安全を確保し、多くの偶像で安心を得ようとする。私たちが神の側に立たない限り、神の視点と人間の視点とは、どこまで行っても平行線である。

 民たちは偶像を造るためにはすぐに行動した(3節)。神のためには行動を遅くし、偶像礼拝、自分自身の安心のためにはすぐに行動する。

 神は怒りを覚え、彼らのことを「うなじのこわい民」と言った。私たちの「うなじ」は神にどのように見られているだろうか。

2.モーセのとりなし

 神はモーセが神のみこころを信じているかを試された(出エジ32:7~)。モーセとヨシュアが戻ると、人々は子牛を礼拝し踊っていた。アロンは嘘と分かり切った弁明をした。

 モーセはとりなしをした。「・・・しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジ32:31-32)」。彼の決意は、身代わりの死であった。民の罪を認め、その民の罪が赦されるために自分のいのちを差し出した。

3.私のためのとりなし

 モーセの祈りは、イエス・キリストが私たちのために身代わりとなって十字架にかかって下さったことのひな型である。使徒パウロもとりなしている(ローマ9:3)。イエス・キリストは「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(ルカ23:34)」と祈られた。

 新約の時代である今は、イエス・キリストのとりなし、贖いが私たちに与えられている。今は恵みの時であり救いの時である。イエス・キリストは私たちのために救いを完成され、今もとりなして下さっている(ヘブル4:15-16)。山本牧師)

2019年2月10日(日)

「あなたを導くお方」 聖書箇所:出エジプト記131722

1.近道、回り道、神の道

 人生は紆余曲折がある。ある人生の道は、残念に思えたり、時間がもったいなく感じたりする。近道が最善だと思えても、違う道が最善であったりする。

約束の地カナンまでは最短ルートで約十日の距離だと言われる。しかし、神はあえてイスラエル人に四十年間の荒野の旅をさせた。それは、神がイスラエル人のことを良く知っておられたからである。

 私たちは、なぜこんなに回り道をするのかと思う時がある。しかし、その道で神は私たちを訓練し、鍛え上げ、視点をかえさせ、神のしもとして歩ませるようにされる。近道、回り道、いろいろあるが、私たちが心留めるべきは、神の道に従うかどうかである。

2.出エジプト

 信仰生活とは「出エジプト」である。古い自分、過ぎ行くこの世からの脱出である。人生の大変な回り道の出来事の中でも、神は力強い御手で(出エジ13:2)、寝ずの番をして(出エジ12:42)導いて下さる。人生は私たちの業にかかっているのではなく、神の御腕にかかっている。

 イスラエル人は、エジプトを脱出しても、いつまでもエジプトに恋い焦がれていた。彼らの前には絶えず雲の柱、火の柱があったが、その意味を悟らなかった。彼らの体は出エジプトをしていたが、彼らの心は出エジプトをしてはいなかった。

私たちも同じようなエジプトをひっさげているような旅をしてはいないだろうか。

3.神の導き

 最善をなされる神は、力強い御手で民をエジプトから連れ出された。神は私たちを、昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれる。雲は「聖霊の導き」を象徴している。聖書のことばと御霊の助けによって神の導きを知っていく。神の「導き」とは、私たちに与えられた「特権」である。

 私たちは、人生の中で出エジプトを体験し、成長し、導かれていく。回り道のように感じる時でも、信仰の目を持って雲の柱、火の柱に従って行くとき、神はそこに神の業と栄光を現さる。最終的には最善の結果へと導かれるのである。山本牧師)

2019年2月3日(日)

「無駄なこと、立派なこと」 聖書箇所:マタイの福音書26613

1.立派なこと、無駄なこと

 一人の女が、高価な香油をイエスの頭に注いだ。その香油は三百デナリ(約一年分の賃金に相当)であった(ヨハネ12:5)。弟子たちは「無駄なことを」「もったいない」と非難した。イエスは「無駄ではなく、立派なことだ」と言い切った。部屋中に香油の香りが漂った。

 無駄と思えることは本当に無駄であろうか、と考えさせられる。私たちは無駄なく生きようとする。社会の基準も大切であるが、さらに大切なのは、神の基準、イエスの基準である。

 ある説教者が言った。「キリスト教信仰の標準は、どれだけ無駄なことをするかにあると思う。世の人から見ればバカなようなことを、どれだけ一生懸命にするか、ということにあるのではないか。神のために喜んで自分のものを捧げていく時を、持ち続けて行かねば。」

 イエスのためにできる最高のこととは何だろうか。ほどほどに、無駄使いしないようにと思ってはいないだろうか。「常識の世界は慎重さが支配し、愛の世界は心が支配する。」

2.イエスの十字架

 周囲は、彼女に対し無駄なことをしたと言った。しかし、イエスはその無駄が立派だと言った。コリント1:18「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」イエスを信じていない人にとって、十字架の御業は愚かに見えるだろう。しかし、十字架の御業は無駄ではなく意味のあることであった。

3.私たちのための立派な行い

 この女性は最高のものを捧げたが、これには重要な意味があった。それは「イエスの埋葬のため」だったこと(マタイ26:12)。

 イエスは、ただ単にご自分を喜ばせるために香油の注ぎを受け取られたのではなく、油注がれた者として、人々の手に渡り、十字架につけられて葬られるためであった。

 誰のための香油の注ぎであろうか。それは、私たち人々を罪と裁きから救うための香油の注ぎであって、身代わりの十字架と葬りを意味している。そこには香りが充満した。救いの香り、永遠のいのちへの香りである。あなたにその香りが届いておられるだろうか。(山本牧師)

2019年1月27日(日)

「パンと魚の奇跡、再び」 聖書箇所:マタイの福音書153239

 この時、イエスは異邦人の地を巡っておられた。ガリラヤ湖の岸を行き、山に登ったところで大勢の人がやってきた。多くの病気の人々が癒された。

1.なぜ4000人も?

 なぜ男だけで4000人もの人々が集まったのであろうか。

 この場所は、デカポリス地方のあたりであった(マルコ7:31)。マルコ5:1-20に、汚れた霊につかれた人の話がある。ゲラサ人の地で、レギオンを宿していた人の話である。このデカポリスでは、すでにこの悪い霊につかれた人が、イエスのことを宣べ伝えていたという下地があった。

 私たちも、イエスを伝えていくときに、そのことが時至って神により大きな御業が成されていくのである。

2.「かわいそうに」

 「かわいそうに、この群衆は・・・」(マタイ15:32)。「かわいそうに」ということばから、イエスの人々に対する「憐みの心」を見ることができる。「かわいそうに」はギリシャ語では「スプランクニゾマイ」ということばで「はらわた」のニュアンスがある。つまり「この群衆のためにわたしはらわたは痛んでいる」ということができよう。イエスは群衆のことを、他人事ではない、自分事として、体の痛みのように思われたのである。

3.あなたがたで

 弟子たちは、5つのパンと2匹の魚の奇跡から学んでいなかった。

 イエスは、パン7つと小さい魚を感謝し、裂いて、弟子たちに与えられた。「弟子たちに与えた」ということばは、継続した動作を表す。つまり「弟子たちに与え続けられた」。

 私たちが持つものがたとえ小さくとも、今あるベストなもの、最善のものを主に捧げる時に、主は豊かに祝福して下さる。そして、私たちが自らで配るようになるということである。あなたの持っているもので、あなたを通して主は働こうとされている。山本牧師)

2019年1月20日(日)

「大いなる救い」 聖書箇所:創世記45115

 ヤコブの息子ヨセフの物語である。彼の人生は、波乱万丈、試練に次ぐ試練であった。ヨセフの物語において最も感動的なシーンが描かれている章である。

1.人生の中の試練

 長年、再会できない思っていた兄たちと出会い、自分を制することができないほど声をあげて泣くヨセフの姿。人生の試練を通り、忍耐の限りを尽くし、自分の人生が神のご計画の中にあったと告げるヨセフ(5節)。

 試練や忍耐の無い人生はない。人生を振り返ると、試練と忍耐の中を生きてきたであろう。またこれからもそれらは必ずあるであろう。私たちには忍耐が必要である(ヘブル10:36)が、その忍耐がない。しかし、イエス・キリストの十字架を見上げる時に、その忍耐の力と解決への道が与えられていく(コリント10:13)。人生の節々に、神の励ましと導きがちりばめられている。

2.私の人生の脚本家

 私たちの人生の脚本家は誰であろうか。自分の歩みを見る時、主語を「私」から「神」に変えてみると良い。自分の人生の舵取りは「私」ではなく「神」である、と考えるならば、その状況に神の御手があることを知り、神を信じて乗り越えることができる。最高の脚本家である神がストーリーを進めて下さる。一時の試練で苦しみ弱ってしまう私たちであるが、偉大な神が導いておられ、私たちの人生に計画を持っておられるのである(エレミヤ29:11)。人生を神に任せよう。

3.神のご計画に励まされて

 ヨセフと出会った兄たちは驚き、信じることができず、父ヤコブは、ヨセフが生きていることを聞いて驚きのあまり、ぼんやりしていた(45:26)そんな父ヤコブが「元気づいた」。「元気づく」とは「霊が生きた」という意味があり(イザヤ57:15)、「神との関わりから彼の霊が生きるようになった」ことを意味する。人生に神の御手があることを知ったヤコブである(ローマ11:33-36)。

 「決して離れず、決して捨てない」と言われる神。大いに励まされよう。主は十字架によって私たちを救い、元気を与え、生きる意欲を与えて下さる。大いなる救いはあなたのためにある。

山本牧師)

2019年1月13日(日)

「傍らに立つ神を知る」 聖書箇所:創世記281022

 神とともに生きることができるのに、そのことを知らないで生きることは、とてももったいない話ではないだろうか。神への理解が頭だけならば、神を体験して歩む醍醐味を味わうことはできない。立派とは決して言えないヤコブが、神を体験的に知った話である。

1.知識のみの信仰からの脱却

 ヤコブは父イサクの姿を見て育ったが、個人的な神との関わりをまだ経験していなかった。兄エサウに追われ逃げるように家族から離れ、一人荒野を歩む時に神を経験する。

 私たちも神と向き合う必要がある。信仰が知識だけならば、神の存在が身近でないならば、神がおられることを体験できずにいる。

2.神が共におられる

 ある所でヤコブは夢を見た。「ある所」とは、後にベテル(神の家)と呼ばれるルズという地。「ルズ」は「アーモンド(見張る)」という意味があるそうだ。彼が一夜を過ごしたところは、実に、神が見張り、ヤコブに備えられた場所であった。私たちの人生でも「ある所」がある。私たちの側では分からなくても、神の側からは、私たちを見張りってともにおられる場所である。

 夢の中の一つのはしご。天と地がはしごで繋がっている光景。神は地上で確かに働かれる。キリストの十字架により私たちと天が結ばれる恵み。

 傍らにおられた神が、直接ヤコブにアブラハム契約を語られた。神は私たちの傍で語られる。

)祈りとみことばを通して 神は祈りやみことばを通して私たちに語られる。

)御霊の声を通して 神の御霊は私たちに語りかけ使命を与えられる。「神は、こころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:13)。

3.信仰は受け継がれる

 ヤコブの息子ヨセフの人生は波乱万丈であった。聖書には、主がヨセフとともにおられたと多く記されている。ヨセフはヤコブの信仰を受け継いだ。信仰は受け継がれるべきもの。祝福をもたらすもの。それは自分のためだけでなく、周囲の人々の祝福につながるのだ。今日、傍らに立っておられる主は、あなたを待っておられる。山本牧師)

2019年1月6日(日)

「神の約束のために」 聖書箇所:創世記131418

1.さあ、目を上げて

 「さあ」とはヘブル語で「ナー」。丁寧な言葉。神が自ら、人間のアブラムに対し低姿勢で丁寧に「さあ、目を上げてごらん」「北と南、東と西を見てごらん」と言われた。アブラムは「目を下げ」、思い悩み、心ふさいでいたようだ。愛する甥ロトとの離別、荒れた土地、将来への不安など。

 アブラムのように伏し目がで、暗く、希望がもてない人生、信仰や教会成長、福音宣教に暗い影が落ちていても、神は、神の目線にまで引き上げられる。私たちに必要なことは、今の現実を見る時に、そこに神のことばを当てはめることである。

 「あなたが見渡している地全部」。神が与える地は私たちの信仰の視野に関わっている。

2.縦と横に歩き回り

 アブラムは、今までいた地にとどまることもできたであろう。豊かな土地は道徳的に良くなく偶像礼拝に関わる危険に会う。教会はそれらに注意して歩む必要がある。しかし、とどまっていては福音が宣べ伝えられることはない。

 神は「歩き回れ」と言われた。立って行動し歩き回らなければ、その土地の様子も分からない。

 私たちは、信仰の土地を知る必要がある。家族、仕事、隣人、将来という土地を、神の約束のことばを握って縦横無尽に歩き回ることを主は求めておられる。イエス・キリストの十字架の愛と救いという福音を携えて歩み生きていく時、そこに聖霊が働かれる(ローマ10:14-15)。神は言われる。「わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

3.小さき者をとおして

 アブラムは妻を妹だと言って失敗した。信仰者の歩みも始まったばかりの小さき者であった。

 イエス・キリストが十字架にかかった当時、少なかったクリスチャンたちは、数百年後にローマの国教になった。迫害の中でキリストの愛を宣べ伝え、伝染病の人たちを命を顧みず看病し、捨てられた赤子の里親となった。そのような姿に多くの人々が感動し、世界中に福音が広がり私たちにまで及んでいる。神の約束は、今の時代にも受け継がれているのである。「さあ、目を上げて、・・・」と神はあなたに語られている。(山本牧師)